2018年4月12日(木)
『マリヤは外で墓のところにたたずんで泣いていた。』ヨハネによる福音書20章11節
人が考え込むと、アメリカでは「考え料1ドル」と冷やかすのだそうです。
空の墓の前でマグダラのマリヤは泣きながら何を考えたのでしょうか。
それがわかれば、私も喜んで1ドルを払いましょう。
おそらく、憂いに満ちた絶望の思いであったことでしょう。
けれども、死んだイエスが生きておられて、墓から出て来られるとは、考えもしなかったのです。
彼女にも、他の人たちにも、それは思い及ばないことでした。
弟子たちもそうでした。
奇妙にも、それが彼らの心の真相だったのです。
受難を前にして、イエスは幾たびも「わたしは捕らえられ、嘲弄され、十字架につけられる。そして三日目によみがえる」と語っておられました。
が、それは弟子たちの心には全く思い出されなかったのです。
主のほかのみことばであれば、それを正確に心に留め、伝え得た弟子たちであったのに。
とんでもない。
主がよみがえるなどとは、彼らは考えもしなかったのです。
パウロは、福音は「人の心に思い浮かびもしなかった」知らせなのだと言いました。
つまり、「だれひとりそれを考えつかなかった」と言うのです。
今日もなお、イエスの復活は、簡単には人の心に届きません。
しかしマリヤは事実によって認めさせられました。
復活の主が突然、前に立たれたからです。
彼女は、ありえないこと… イエスが生きておられる… を認めざるを得なかったのです。
事実というものはすばらしいものです。
どんな哲学も、宗教も、私たちの真の支えや慰めにはなりえません。
いざ生死にかかわる深刻な事態になると、それらは用をなさないのです。
けれども、生ける救い主、救助者、友。
主こそは、私たちのいと近くにいる方です。
主よ。
あなたが生きておられるという、考えも及ばない事実を、受け取らせてください。アーメン
God Bless You!!
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