2018年2月23日(金)
『イエスがまだ話しておられるうちに、見よ、十二弟子のひとりであるユダがやって来た。剣や棒を手にした大ぜいの群衆もいっしょであった。』マタイによる福音書26章47節
人々の叫びと武器のぶつかる音が、ゲッセマネの静寂を破って響きました。
ここには二種類の追っ手がいます。
一方は剣を持った人々。
明らかに正規の兵士たちです。
それに加えて、他方は棒を持った一団です。
何と奇妙な武器でしょうか。
豆の支柱ですか。
カーテン棒ですか。
何だと言えばよいのでしょうか。
原語では、単なる棒という程度のことばです。
つまり彼らは、神の御子に向かって棒を振り上げているのです。
なんと恐ろしいことでしょう。
神は御子を遣わしてくださいました。
私たちがそれによって「いのちと充足」を得るためです。
が、人間は、この愛に抵抗して棒を振り上げたのです。
なんという堕落した、人の心。
旧約聖書(ヘブル語)のギリシャ語訳、いわゆる七十人訳は、この棒ということばに興味深い使い方を示しています。
「クシュロン」は、神に背いたアダムとエバが実を取って食べた、あの木を指しても使われているのです。
つまり、「罪の木」から枝をもぎ取って、人間はイエスに立ち向かうのです。
放埒に罪を犯すときはいつでも、私たちは罪の木の枝をつかんでイエスに反抗します。
ゲッセマネの夜以来、群衆はなんと数を増して今日に至ったことでしょうか。
私たちが罪を犯すたびに、私たちもあの群衆のひとりになるのです。
それゆえ、私たちは罪を軽く見てはなりません。
世はそうするでしょう。
が、主のものとなった人々は、それがどんなに主の心を痛めるかを知るべきです。
主よ。
私たちがどれほどあなたを悲しませたことか、どうぞお赦しください。
私たちをあなたのかたちに変えてくださる聖霊を、どうか私たちにお注ぎください。アーメン
God Bless You!!
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