2018年12月3日(月)の手紙

2018年12月3日(月)


『そのとき、エルサレムにシメオンという人がいた。…イスラエルの慰められることを待ち望んでいた。』ルカによる福音書2章25節


シメオンはおそらくしばしば尋ねられたことでしょう。
「あなたはいつも何かを待っているようですね」。

するとシメオンは答えました。
「確かに待っていますとも。
でも、何かをではなく、ある方を待っているのです」。

そして「いったいだれを待っているのですか」と重ねて聞かれたならば、「神の民の慰めを」と答えたことでしょう。

慰めと呼ばれる救い主をこんなにも辛抱強く待つほどの特別な不幸の中に、彼はいたのでしょうか。
いいえ。
この人はある日「我に返った」のだと私は思います。

今日の人々は、イタリアだ、スペインだ、アメリカだ、インドだと、あちらこちらに出かけます。
が、我に返ることは決してないのです。

我に返ったシメオンは、私たちのたましいの奥底にある絶望に気づきました。
その絶望には幾つもの要素が絡んでいました。
生きる不安、罪の意識、拒絶への恐れ、嫉妬、劣等感、高慢。
これらが一つになって… それが絶望というものです。

預言者ナホムは、世界的都市ニネベの滅亡、ひいては世界滅亡の幻を見せられて、「あなたのために悔やむ者をどこに捜そうか」と言いました。

しかしシメオンは知っていました。
私たちの絶望を癒すのは、神のただ一つのみわざである、ということを。
そして神はこのみわざをなさいました。
神の御子が私たちの救い主として来られたのです。

シメオンの心には、このような賛美が響きました、
「主は来られた、主は来られた。
愛と歓喜に満ち満ちて。
悩みと不安、鎮めるために、あなたのすべてを知る主は来られた」。

主よ。
あなたが世界の慰めであられることを、感謝いたします。アーメン

God Bless You!!


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