2018年12月10日(月)の手紙

2018年12月10日(月)


『そのとき、イエスは、弟子をふたり使いに出して、言われた。「向こうの村へ行きなさい。そうするとすぐに、ろばがつながれて… いるのに気がつくでしょう。」』マタイによる福音書21章1節~2節


「親方が職人ふたりを使いに出した」。
あるいは「大臣が参事官ふたりを派遣した」。
このような場合には必ず本職を派遣するものです。

と考えるならば、きょうのみことばは、「イエスは、ろばの扱いに慣れた農夫の弟子をふたり」とあるべきでしょう。

が、ここにはただ「弟子をふたり」とあるのみです。
なぜでしょうか。
だれであるか、どんな人であるかは、主には問題ではないからです。
大切なのは、その人が「弟子」であるかどうかということです。

どんなに学問があっても、才能があっても、主イエスがお尋ねになるのはただ一つ。
「あなたはわたしの弟子ですか」ということです。

もしも私たちがそうでないならば、神の国にとって私たちは無用の存在です。

では弟子とはどんな人でしょうか。
ベテバゲに使いに出された弟子たちは、まだイエスの十字架の奥義を悟ってはいませんでした。
また、「新しく生まれる」ことさえ、さだかに理解してはいなかったのです。
けれども彼らは主イエスの支配のもとにいた人たちです。

私はいつか、ライン下りの船の艫に立って、泡立つ航跡を見つめていました。
そこに一枚の大きな紙切れが流れて来ました。
そして今までの流れの方向から突如、船の航跡に巻き込まれたのでした。

この世は、いのちの源から離れようとする一つの強い流れであり、そしてイエスの弟子であるとは、この世の流れから抜け出して、主イエスの航跡に加わることです。

このたとえは充分なものではありません。
紙切れには意志がないからです。
が、私たちは、ただ自分の意志を働かせて弟子となるのです。

主よ。
どうぞ私たちの心をも捕らえてください。アーメン

God Bless You!!


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