2018年10月13日(土)の手紙

2018年10月13日(土)


『(イエスは言われた)わたしの羊はわたしの声を聞き分けます。』ヨハネによる福音書10章27節


友人から、かわいらしい話を聞きました。

彼は自分の小さな息子に、良い羊飼いである主イエスの話をし、「お前もイエスさまの羊になるのだよ」と言いました。

子どもは黙って聞いていましたが、夜になってベッドに入り、祈ったそうです。
「愛する主よ。ぼくをどうしても動物にするのなら、どうぞお馬にしてください」。

私たち人間にはみな、そんなところがあります。
私たちは少しでも抜きん出た存在でありたいのです。
神の国がみすぼらしい十字架の姿で現されることは、気に入りません。
あの子どもにも「羊」ははかばかしくは思えず、さっそうたる駿馬が望ましかったのです。

さて、主が私たちを羊にたとえられたのには、理由があります。
彼はご自分の民ばかりか、すべての人を「羊」と呼ばれました。

ただし主は、迷い失われた羊と、救われて主の群れのものとなった羊とを区別なさいました。

なぜ主は私たちを「羊」と呼ばれるのでしょうか。
おそらく、私たちが方向感覚を持たないからです。
この世のことについてならば、曲がりなりにも進んで行けても、私たちの生涯の、永遠の目的となると、まるで途方に暮れるのです。

だから羊飼いが必要です。
とすればイエスが私たちの羊飼いとなってくださったことは、なんと幸いなことでしょうか。

子どものようになって、「わたしは主イエスの羊。
この良い羊飼いを、絶えず、絶えず、喜びます…」と賛美しない限り、どんなに力を尽くしても、本当の人生を歩むことはできません。

生ける方イエスは、今もこの世の道を歩みつつ、羊飼いの声を放っていてくださいます。
多くの人々にとって、その声は、彼ら自身の声や人々の声によってかき消されていることでしょう。

が、「わたしの羊はわたしの声を聞き分けます」と主は言われます。

主よ。
私たちを見捨ててしまわれないので、感謝いたします。アーメン

God Bless You!!


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