2018年1月29日(月)の手紙

2018年1月29日(月)


『イエスがエリコに近づかれたころ、ある盲人が、道ばたにすわり、物ごいをしていた。』ルカによる福音書18章35節


なんという対比でしょうか。
聖書の中で、この一節ほどに大きな対比を示す表現はないでしょう。

一方にはイエスがおられます。
この方について使徒ヨハネは書き記しました。
「私たちはこの方の栄光を見た。
父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。
この方は恵みとまことに満ちておられた」。

また、神ご自身がイエスについて証言なさいました。
「これは、わたしの愛する子である。彼の言うことを聞きなさい」。

イエスは、嵐に命じてこれを静めた方です。
力ある御言葉でラザロを墓から呼び出した方です。
敵に向かって「わたしに罪があると責める者がいますか」と尋ねることのできた方です。

他方、この主に向かいあって、道端の砂ぼこりの中にうずくまっている悲惨はひとりの物乞いです。
彼は自分の前の鉢に人がいやいや投げ込む小銭で、かろうじて生きていたのでした。
目が見えず、果てしない闇が彼を取り巻いていました。
何という絶望、苦悩、落胆でしょうか。
この物乞いには、堕落した世が形をなして現れていました。
この世、それはアダムの堕罪によって決定づけられ、失われた世界です。

しかし、ふたりはただ向かいあうだけではありません。
ある人が言いました。
「イエスには悲惨を引き寄せる引力がある」と。
同じことをダビデも語っています。
「主は心の打ち砕かれた者の近くにおられ、霊の砕かれた者を救われる」。

もしもそうであるならば、私たちも生涯のあらゆる悲惨…
明白なものであれ、ひそかなものであれ、いっさいをイエスの前に広げることができます。
主は私たちにも会ってくださるからです。

私の悲惨に触れるお方。
どれほど感謝すればよいのでしょう。アーメン

God Bless You!!


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