2015年10月14日(水)
『愛する者が傷つけるのは、まことからであり、あだの口づけするのは偽りからである』箴言27章6節
忠告をありがたく思う人ばかりではない。
だけど、ダビデは「正しい者が愛情をもって私を打ち、私を責めますように。
それは、頭にそそがれる油です。
私の頭にそれを拒まないようにしてください」と記している。
叱ってくれた人に恩義を感じていたのだ。
悪い事は悪いと叱るのは親切であり、誠意ある行為だとダビデは言っている。
真の友なら、そうするだろう。
気まずくなったり、友情にひびが入ったりしてもそうする。
それは愛の表われであり、成長の助けとなるからだ。
神に喜ばれる態度で、「それは悪い事だ」と注意するには、信仰による慎み深さが必要だ。
その注意をきちんと受け止めるためには、それ以上の慎み深さが必要だ。
ダビデはナタンの叱責を受け入れたけれど、私達なら、余計なお世話だと憤慨するかも知れない。
だけど、過ちを認めて謝るなら、それは「頭に注がれる油」になり、私達の人生は、その行く先々で、かぐわしい香りを放つものになるだろう。
信仰による慎み深さが成長するためには、時として、誠実な友からの耳の痛い言葉が不可欠だ。
それを拒絶してはならない。
叱責を大事にする者は利口であり、知恵のある人だ。
God Bless You!!
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