2013年6月16日(日)

2013年6月16日(日)


『そこへ、アレキサンデルとルポスとの父シモンというクレネ人が、郊外からきて通りかかったので、人々はイエスの十字架を無理に負わせた』マルコによる福音書15章21節


見物していたほとんどの人にとって、イエス様は処刑場に向かうひとりの犯罪者でしかなかった。
だから、イエス様の十字架を背負わされるのは恥であり、屈辱だったに違いない。

クレネ人シモンは、無理やりこの役目をさせられた。
だけど、この日は、彼の人生で最も輝かしい日だったのかも知れない。

聖書の研究者の中には、クレネ人シモンがイエス様を救い主として信じ、妻子も同じ信仰を持ったと言う人達がいる。

実際、イエス様の処刑から何年も経って、パウロはローマのクリスチャンに挨拶を送っているけれど、その中にルポスという名の人とその母がいる。
そして、マルコによる福音書で、シモンはルポスとアレキサンデルの父だと書かれている。
マルコはたぶん、ローマで福音書を書いていたので、「あのルポスの父親がシモンだ」と言いたかったのだろうか。

イエス様と共に歩き、「自分の十字架を負う」行為は、世間の人達には理解できないかも知れない。
あざ笑う人もいるだろう。
だけど、そういう経験を通して、私達の人生はクレネ人シモンのように変えられ、家族や友達の人生にまで、影響を与える事ができるのだ。

確かに、イエス様に従う事は、大きな犠牲が伴うだろう。
だけど、従わないなら、その犠牲はもっと大きなものとなる事だってある。

シモンは「無理やり」に、十字架を背負わせられたけれど、イエス様は、今私達に自らすすんで、自分の十字架を負うように、私達を招いておられる。
恵みに満ちた主が、招いておられるのだ。

God Bless You!!

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