2013年3月15日(金)

2013年3月15日(金)


『かえって、あらゆる場合に、神の僕として、自分を人々にあらわしている。すなわち、極度の忍苦にも、患難にも、危機にも、行き詰まりにも…』コリント人への第二の手紙6章4節


町内会の回覧板や、地域紙には、日常で必要な事が書かれている。
時には、まったく関係がない事も少なくないけれど。

毎日のゴミ出しの注意事項や、防災への注意などもある。

私達の一日のほとんどは、日常的な雑務に費やされる事も少なくない。

ある学者は、私達の人生の60パーセントの時間を、通勤や買い物などの日常的な事柄に費やしているのだから、日常的な行為をもっと大切にしようという論文を発表した。

パウロの日常生活がどのようなものであったのかは、私達にはわからないけれど、彼はあらゆる事において、自分を神のしもべとして推薦している。

パウロが言うあらゆる事の中には、過酷な迫害だけじゃなく、純潔や親切、偽りのない愛や他にも毎日体験する事柄が含まれていたんじゃないだろうか。

だけど反対に、私達にはビジョンがなくて、霊的な高揚も感じられない日常の小さな仕事になると、意欲を失ってしまうのだ。

神と人との間で、真実に輝くものは、見えない所でのうむ事のない地味な働きなのに。

私達の信仰生活が、日の当たらない所でも、くじけないためには、絶えず神様を仰いでいる必要がある。

だから、イエス様のために、今日を精一杯生きよう。
なぜなら、それはとても大切な日常の一日なのだから。

私達が、人生を最大限に生きたければ、イエス様のために一瞬一瞬の日常を、精一杯生きる事だ。

God Bless You!!

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