2012年9月9日(日)

2012年9月9日(日)


『真夜中ごろ、パウロとシラスとは、神に祈り、さんびを歌いつづけたが、囚人たちは耳をすまして聞きいっていた』使徒行伝16章25節


信仰による偉大な行為が、冷静な計算から生まれる事はめったにない。

モーセに、紅海の岸で杖を上げさせたのは、理屈ではなかった。
ナアマンに、ヨルダン川に七たび身を浸す事を信じさせたのは、医学的な調査ではなかった。
パウロに律法を捨てさせ、神の恵みを受け入れさせたのは、自信たっぷりな委員会のお歴々ではなかった。

それは怯えて、絶望的になった、どこにも行き場のない信者の一団に過ぎなかった。
選択の自由のまったくない信徒達であり、助けを請い願う、財産や社会的地位とは無縁の集団だった。

彼らには、何の力もなかった。
どの信仰の行為も、最初はしばしば恐れの種を宿している。
しかし、その種は、驚くような可能性の実を結ぶのだ。

God Bless You!!


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