2012年7月27日(金)
『人の子がきたのも、仕えられるためではなく、仕えるためであり、また多くの人のあがないとして、自分の命を与えるためである』マルコによる福音書10章45節
イエス様の素晴らしい能力のひとつは、正しい目標にとどまり続ける事だった。
主の歩まれた人生は、絶対に目標からそれる事はなかった。
ずっと、正しい方向を進み続けられた。
イエス様は、ご自分の未来に続く地平線のかなたに目をはせ、多くの目標をご覧になった。
そのどれもが、主なら達成しえたものだろう。
主なら、革命的政治家にもなれただろうし、教師となって人の心を教え導く事もできただろう。
だけど結局、主が選ばれたのは、父なる神の御心だった。
救い主として、人々の魂を救う事だ。
イエス様の近くで時間を過ごした者なら、誰でもイエス様ご自身からこう聞いていただろう。
「人の子は、失われた人を捜して救うために来たのです」
イエス様は、過酷なまでにひとつのつとめに専心なさっていた。
ナザレの大工を後にした日、主にはひとつの最終的な目的があった。
カルバリの丘の十字架である。
God Bless You!!
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