9月4日(木)

9月4日(木)

『しかしわたしをここに売ったのを嘆くことも、悔むこともいりません。神は命を救うために、あなたがたよりさきにわたしをつかわされたのです』創世記45章5節


ヨセフは、自分を奴隷に売った兄達に身分を明かし、兄達は驚きのあまり言葉を失った。
彼らは、ヨセフだけじゃなく、年老いた父ヤコブをも苦しめていた事を思い出して、恐れと罪責感に襲われた。

ヨセフは兄達の心中を察し、彼らの自責の念がその心に根を張る前に、今日の御言葉を語った。
彼は、この試練が、多くの人々を救うための神様のご計画であったと分かっていたからだ。

私達が罪を犯して誰かを傷付けた時は、ヨセフの兄達と同じような状態だろう。
そんな時、イエス様が十字架で私達の罪のために代価を払ってくださった事を思い出して欲しい。

勿論、誰かを傷付けたなら、相手に赦しを請う必要はある。
しっかりと謝罪をし、神様の前にも悔い改める必要がある。

それでも尚、自分を責め続けてしまう人に、知ってもらいたい事がある。
自分に対して腹を立て続ける事は、罪の記憶に活力を与えているという事を。
これを止めるには、自分の罪にではなく、罪を贖ってくださった救い主に目を向ける事だ。
私達がした事ではなく、主がしてくださった事を考えるべきなのだ。

イエス様が、私達の罪を赦されたのなら、私達も罪を「忘れて」いい。
神様を信じている者達が、罪責感という重荷を負い続ける事は、決して神様の御心ではない。

God Bless You!!

追伸
…何度も言うけれど、自分が犯した罪によって誰かを傷付けたなら、しっかりと謝罪をしなくてはいけない。
その結果、相手が自分を赦してくれたなら有難いけれど、赦してくれないからといって、相手を責める権利はない。
だけど、成すべき事は成さなくてはいけない。
その工程を削除して、神様からだけの赦しを求めて「赦された!」なんて思っているなら、それは大間違いだ。

あえて、もう一度言わせてもらうなら。
自分が犯した罪のために傷付けた人がいるなら、神と人とに赦しを請おう。
その工程を経たなら、きれいさっぱり忘れよう。
私達に必要なのは「悔い、改める」事であって、「罪責感」ではない。
悔いて、改めて、新しい歩みをすべきなのであって、罪が自分を責める「感覚」によって生きてはいけない。

a:396 t:2 y:0