8月10日(水)の手紙


2016年8月10日(水)

『これらの事の後、神はアブラハムを試みて彼に言われた、「アブラハムよ」。彼は言った、「ここにおります」。』創世記22章1節


特別な人を夕食に招待して、レンジで残り物を温めて出す事はできない。
もし、そんな事をするなら、その人の事を本当はどう思っているのかをはっきり示している事になる。

自分の生活の残り物を神に捧げているならば、神の価値は、本当のところどの程度なのかを表していると言える。

神はアブラハムに息子イサクを捧げなさいと命じられたが、これについて創世記22章1節は、「神はアブラハムを試みて」とある。
神以上に大切なものがあるかどうかを調べるテストだった。

私達にも、同じ事が言える。
神の御心を成すために、大切なものを差し出さなければならない時がある。
例えば、復讐願望というのは自然な気持ちかも知れないけれど、神がそれを捨てるように言われるかも知れない。
私達が敵を赦さないのに、神の赦しを伝える事はできないからだ。

また、神は福音宣教を前進させるために、貯金や快適な生活、また自由な時間のいくらかを捧げるようにと命じられるかも知れない。
自分の子どもが宣教師になって外国に行きたいと言い出し、それを許すようにと神に促されるかも知れない。

このような状況にどう反応するかは、私達が神の事を本当はどう思っているのかを表している。

残り物を捧げる事は、誰にでもできる。
すべてにまさって神を愛する人だけが、神に最高のものを捧げる事ができるのだ。
私達がどれほどの犠牲を払ったとしても、ご自身のすべてを捧げられたお方の犠牲に勝るものはない。

God Bless You!!

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