7月31日(木)
『あらゆる良い贈り物、あらゆる完全な賜物は、上から、光の父から下って来る。父には、変化とか回転の影とかいうものはない』ヤコブの手紙1章17節
クリスチャンにとって五感を満足させるのは、悪い事のように思われがちだ。
楽しみを追求するのは、世に迎合しているというのだろう。
だけど、神様は五感を通して、適切に楽しむ事を認めておられる。
人間の感覚を創造されたのは、神様なのだから。
視覚、聴覚、臭覚、味覚、触覚。
神様が造られたものは、すべて良いものだ。
また、神様は礼拝の一部に、感覚に訴えるものを採用された。
一度、幕屋について考えてみよう。
幕屋は豪華に飾られ、モーセがシナイ山で与えられた石の板を入れる契約の箱は、金で覆われていた。
神様は、美を良しとされた。
祭司がかおりの高い香を調合してたく場所として、香の壇もあった。
神様は、芳しい香りを喜ばれた。
皿や水差しが並んだ、精巧な机もあった。
神様は、おいしい食事も認めてくださっている。
幕屋の周囲には、色鮮やかな撚り糸と、撚り糸で織った布で作られた幕がかかっていた。
神様は、彩りや手触りを是とされた。
歴代志下29章28節を読むと分かるように、音楽も礼拝の大切な要素だ。
勿論、幕屋や音楽には神学的要素がある。
そして、神様は、五感に素晴らしいと感じるものを良しとされた。
だけど、これらを礼拝する事は望んでおられない。
むしろ、すべての良いものの造り主であり、与え主である神様を、礼拝する事を望んでおられる。
どんなに美しくても、芳ばしい香りでも、どんなにおいしい食事でも、神様を賛美する音楽でさえも、礼拝の対象になってはいけない。
偶像にしてはいけないのだ。
だけど、五感を神様の栄光のために用いるというなら、すべては納得できる事になる。
God Bless You!!
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