7月27日(水)の手紙


2016年7月27日(水)

『だれでも小さい事の日をいやしめた者は、ゼルバベルの手に、下げ振りのあるのを見て、喜ぶ。これらの七つのものは、あまねく全地を行き来する主の目である。』ゼカリヤ書4章10節


「この人は大きな働きに召されている」というような言葉を聞いた時、その意味は、この人は、教会のメンバーの多い経済的に豊かな教会で働くという事だった。
これは複雑な気分になる。
神の召しは、社会的・経済的な上昇志向だと考えるのはなぜだろう。

神は、優秀な働き人を、小さな場所で生涯働くように遣わされないのだろうか。
僻地と言われるような所にも、福音を伝え、聖書を教えるべき人達がいるはずだ。
滅んでも仕方がないと神が思われる人は、ひとりもいない。

イエス様は群衆と同じように、個々の人にも心を配られた。
群衆を相手に宣教されたけれど、聴く人が少なくてもまったく意に介されなかった。
実際、ヨハネは、多くの人が主から離れていったと語っている。

移り気な人が去って人数がどんどん減っていくなら、私達はパニックになるかも知れない。
だけど、イエス様は動じないで、御父が与えてくださった人達に御言葉を教え続けられた。

私達は、大きい事をほめたたえ、サイズを成功の尺度にする世の中に生きている。
この価値観に抵抗するには、強い人間でなければならない。
小さな場所で働いているなら、なおさらだ。

だけど、サイズには何の意味もない。
内容こそがすべてだ。
小さな教会に全身全霊で仕えよう。
聖書の勉強会や教会学校の参加者が少なくても、全力で頑張ろう。

小さな奉仕は、大きな奉仕への踏み台ではなく、偉大な奉仕そのものだ。
どんなに小さくても、神がおられれば大したものなのだから。

God Bless You!!

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