7月17日(木)

7月17日(木)

『人の義とされるのは律法の行いによるのではなく、ただキリスト・イエスを信じる信仰によることを認めて、わたしたちもキリスト・イエスを信じたのである。それは、律法の行いによるのではなく、キリストを信じる信仰によって義とされるためである。なぜなら、律法の行いによっては、だれひとり義とされることがないからである』ガラテヤ人への手紙2章16節


パウロは、はっきりと物を言う人だった。
相手が裁判官や役人、使徒仲間のペテロであろうと、言うべき事を言った。

彼は、ガラテヤ人への手紙2章16節で、同じ事を3度繰り返している。
つまり、律法を行う事では義と認められないという事だ。

初代教会の改宗者の多くはユダヤ人だったので、律法は重大な問題だった。
そこには、イエス様を信じていても、律法主義の考え方から離れない人がいた。

「割礼をしなかったり、偶像に供えた肉を食べたら救われないでしょう。
ユダヤ人の信者が異邦人と一緒に食事をするなんて、もってのほか!」と言っているのは、大間違いだ。

神様が義と認めてくださるのは、ただ信仰によるのであり、個人や教会が付け加えるものは何もないと、パウロは断言している。

だけど、サタンは混乱の創業者だ。
福音を歪める様々な方策を見つけて、信仰だけでは十分ではないと思わせる。
サタンは、主導権を握りたいとか、救われるために自分も何かしたいという私達の願望につけ入って、奉仕や礼拝出席の皆勤、服装や趣味の選択など、余分な物を救いの条件として付け加えようとさせる。

これらは、信仰生活にとって大切なものだけれど、どれを取っても救いに不可欠なものじゃない。

だから、要点をしっかり押さえる必要がある。
私達は、信じる事で救われるのだ。

God Bless You!!

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