4月25日(月)の手紙


2016年4月25日(月)

『わたしたちに負債のある者をゆるしましたように、わたしたちの負債をもおゆるしください』マタイによる福音書6章12節


傷つけられたと思うと、赦さなくてもよい理由が次々に浮かんでくる。
怒られるのは自業自得だとか、少しは良い薬になるだろうとか、向こうから頭を下げるのが筋だろうとか。

やっと赦す気になった頃には、がちがちの理屈を一挙に飛び越えて、感傷主義に入って行く。

相手を赦す動機のひとつは、そう命じられたからだ。
私達は、天の御父に赦していただいた。
そして、イエス様は「誰かに対して恨み事があったら、赦してやりなさい。
そうすれば、天におられるあなたがたの父も、あなたがたの罪を赦してくださいます」と言われた。

これに加えて、赦すべき三つの実際的な理由をあげる事ができる。
まず、赦しは非難と痛みという「恵みに非ざるもの」の悪循環を絶つ。
赦さなければ、私達は相手に縛り付けられたままだ。
他人を赦せない人は、自らが渡らなければならない橋を燃やしている人のようだ。
その人生は、いずれ行き詰る事になる。

次に、赦された人は罪の縄目から解放される。
仮に、罰せられる事になったとしても、罪の縄目からの解放は、人の心を一新させる可能性を秘めている。

最後に、赦しは加害者と被害者の間に驚くような絆を作り出す。
赦した人は、自分を加害者と同じ立場に立たせる。
私達は、間違いを犯した人とそれほど大きく違わない。
なぜなら、私達も「私達の負い目をお赦しください」と天の御父に請い願わなければならない者なのだから。

God Bless You!!

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