3月6日(日)の手紙


2016年3月6日(日)

『モーセは主に叫んだ。主は彼に一本の木を示されたので、それを水に投げ入れると、水は甘くなった。その所で主は民のために定めと、おきてを立てられ、彼らを試みて』出エジプト記15章25節


イスラエルの民は、奴隷の生活から解放され自由になったけれど、紅海を渡ってしばらくすると、厳しい現実に直面した。

エジプトにいた時のように、水や食べ物は十分にない。
荒野に出てから三日目には、水がなくなってしまった。
やっとの思いでオアシスのマラに着いたけれど、そこの水は苦くて飲めなかった。

こうなれば、奇跡に頼る他はない。
イスラエルの民はモーセに叫び、モーセは神に叫んだ。
神は一本の木を示されたので、モーセはそれを水に投げ入れた。
すると、奇跡が起こり、水は甘くなった。

同じように水の奇跡が、以前にもあった。
神は、パロとパロの家臣の前で、水を血に変えられた。
エジプトのきれいな水が、主の手によって血にされたのだ。

マラでの教えは、明らかだ。
エジプトで水を血に変えたその同じ手は、苦い水を甘い水に変える事もできる。
エジプトに呪いをもたらしたその同じ力は、イスラエルに祝福をもたらす力ともなるのだ。

「この必要が満たされるなんて不可能だ」と思われるような状況に私達があるのなら、どうか思い出して欲しい。
最大の必要は、罪の赦しだという事を。
神は、それを与えてくださったのだ。
その同じ神の御手が、すべての必要を満たしてくださる。
不可能に見える事を可能にしてくださる主を信頼しよう。

God Bless You!!

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