3月28日(土)の手紙



『それはダビデがヘテびとウリヤの事のほか、一生の間、主の目にかなう事を行い、主が命じられたすべての事に、そむかなかったからである』列王記上15章5節


私達は、善良な人は常に正しくあって欲しいと思っている。
だけど、善人にも欠点はある。
だから、善良な人達の中にも悪が潜んでいるという事実に、向き合わなくてはいけない。

私達は、聖書は真実だと信じているけれど、その理由のひとつは、著者である神様が、ご自分の選んだ人達の欠点を隠しておられない事だ。

神様は、民の指導者を選ばれたけれど、この人達の失敗も隠してはおられない。
彼らの過ちを弁解したり、大した事ではないと嘘ぶいたり、見て見ぬふりをしたりはされなかった。
それを記述し、有罪判決を下し、その過ちの結果として起こる事の範囲を定め、そして赦された。

最も際立った例は、ダビデ王だろう。
彼は、他人の妻を奪っただけではなく、不義を隠すために夫の生命まで奪った。
ダビデは、そのような卑劣な行いをしたけれど、罪を問い詰められると悔い改めた。
その心が主に忠実であったために、後世のイスラエルの王達が裁かれる際の基準にもなった。

神様は、すべての人の心をご存知で、えこひいきをなさる方ではない。
罪の事実は辛いかも知れないけれど、告白をして赦される経験をすれば、私達の心は神様に向かっていく。

罪を認めずにいる限り、罪を過去のものにはできないのだから。

God Bless You!!


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