3月17日(火)の手紙


『彼らは互に言った、「道々お話しになったとき、また聖書を説き明してくださったとき、お互の心が内に燃えたではないか」』ルカによる福音書24章32節


使徒行伝17章で、パウロはユダヤ人の会堂へ行き、イエス様が復活した事を論証した。
だけど、そこにいた人々の多くは、神様を求めているのではなかったようだ。

使徒行伝を記したルカによれば、この人達は、何か耳新しい事を話したり、聞いたりする事だけで、日を過ごしていたからだ。

情報過多は、危険だ。
個々の考えがぼやけて矛盾し、情報を活用して変化をもたらす事ができなくなるからだ。

大昔の歴史家は、情報社会の危険性について警告し、次のような言葉を残している。
「人の頭は容器のように、何かで満たせばよいというものではない。
それは、燃やされるべき火のようなものだ。」

エマオへ向かっていたイエス様の弟子達は、この言葉に共感するだろう。
彼らは主の死を悲しんでいたけれど、彼らの目はふさがれていたので、共に旅をしているお方がイエス様だとは知らなかった。

そして、旧約聖書を貫いて示されているご自身についての預言を解き明かされた。
その夜、彼らは、このお方がイエス様だとわかった。

イエス様の姿が見えなくなった後、弟子達は道々話されていた事を思い巡らし驚いた。
イエス様が語られた事は、ただの情報ではなく、神様に益々献身しようと心を燃え立たせる火だったからだ。

私達も、御言葉によって成長し、心を燃え立たせてくださるたましいの羊飼いを信じて従う者でありたい。
自分の心が燃やされなければ、ほかの人の心に火をつける事などできないのだから。

God Bless You!!


a:249 t:1 y:0