2023年5月27日(土)
『疑いの余地』
疑いを称賛するようなことばかり述べてきたが、疑いが人を信仰に導くよりも、信仰から引き離す可能性があることも認めなければならない。
私の場合、疑いをもつことで、疑問視すべき多くのことに気づくことができた。
また、信仰の代用品の探究にも駆り立てたが、どれも代用品としては不足であるとわかった。
私が今日もクリスチャンであり続けているのは、疑いのおかげだ。
けれども、他の多くの人には、疑いがそれと反対の影響をももたらしてきたことは確かだ。
疑いは神経の病のように、ゆっくりと霊の麻痺を引き起こす。
私は毎週のように、疑いに苦しめられている人からの手紙に返事を書いている。
彼らの苦しみは、私の知る苦しみと同じように激しいもので、衰弱をもたらしている。
私たちに疑いをコントロールすることはできないが、それを毒でなく栄養になりそうな方向へ向けることは可能だ。
私はまず疑いに対して、被造物としての自分の地位にふさわしい謙虚さをもって近づくようにしている。
難しい問題への取り組み方は、有限な生き物である人間の地位にふさわしいものであるべきだ。
神の主権という教理を例に取ると、それは人間の自由と不分離の緊張関係の中にあると聖書は教えている。
一秒ごとにひもとくようにではなく、すべての歴史を一度に見る全能の存在としての神の見方は、神学者を困惑させてきたし、これからも常に困らせることだろう。
それは、そうした見方を私たちはすることができず、想像することさえできないという、それだけの理由による。
この世で最高の物理学者は、時間の多方向の矢を説明するのに奮闘している。
謙虚なアプローチとは、見方の違いを受け入れ、私たちの限界を超越している神をあがめることだ。
もちろん、教理の周辺にあるいくつかの問題も探究しなければならない。
たとえばC・S・ルイスは『天国と地獄の離婚』の中で、地獄を人々が自分で選ぶ場所、そこで終わりになるときにも選び続ける場所として描いたが、私はそれに慰めを見いだした。
ミルトンのサタンが言ったように、「天国において奴隷たるよりは、地獄の支配者たるほうが、どれほどよいことか」である。
それでもなお、天国と地獄についての最も重要な疑問———だれがどちらに行くのか、セカンドチャンスはあるのか、さばきと報いはどのようなかたちをとるのか、死後の中間状態とはどのようなものか———は、せいぜいおぼろげにわかる程度だと言わなければならない。
私はその無知をますます感謝し、また、イエスの中にご自分を現した神が答えを決定する方であることに、ますます感謝している。
God Bless You!!
a:10 t:1 y:0