2023年5月26日(金)
『疑う仲間』
時が経つにつれて、確実性よりも神秘性を心地よく感じるようになった。
神は私たちの腕をねじり上げて、出口はそこしかないと、ご自身を信じる信仰へ強制的に追い込んだりはなさらない。
私たちはパスカルと一緒で、常に「否定するのにはあまりにも多くのもの、確信するのにはあまりに少ないもの」を見るだろう。
神は無理強いしようとなさらない。
このことを確認するために、私はイエスに目を向ける。
イエスは、人間に見えるようにされた神の姿である。
イエスのゆえに、人々にとって、信じることが易しくなるどころか、もっと難しくなるということがしばしばあった。
イエスは、決して各個人の決断の自由を侵さなかった。
たとえそれが自分に歯向かう決断であったとしてもである。
私の育った教会は、疑問をもつことを許さず、「ただ信じなさい!」と言うばかりだった。
定められた真理から踏み出る者はみな、逸脱者として罰を受けるとされた。
私の兄はバイブル・カレッジで1960年代に、ロックミュージックは本来的に不道徳なわけではないという大胆なスピーチをして、落第点をもらった。
兄はクラシック音楽を愛好し、ロックの趣味はなかったが、学校でロックをめぐって繰り広げられた議論を支持する箇所を聖書の中に見つけることができなかったのだ。
兄は議論に長け、私はそのスピーチを何度も聞いたことがあった。
そして発表のノートを見て、兄が落第点をもらった理由がただ一つであると確信した。
教師は、兄の結論に反対だったのだ。
さらにその教師は、神が兄の結論に反対していると結論づけてもいた。
兄は退学した。
信仰を捨て、二度と信仰に戻らなかった。
兄が人を自由にする真理も、放蕩息子の居場所を用意する教会も見つけることができなかったことが主な理由だと私は思っている。
私は兄と非常に異なる経験をした。
信仰の旅路で恵みに満たされた教会と、疑問を安心して言えるクリスチャンのコミュニティーを見つけたのだ。
福音書の中でイエスの弟子トマスは、他の弟子たちの語る主の復活の話が信じられなかった。
しかし、それでも他の弟子たちとの付き合いを続けていた点に私は注目している。
そしてイエスはそのコミュニティーの中で、トマスの信仰を強めるために姿を現された。
同様に、『キャンパス・ライフ』誌や『クリスチャニティー・トゥデイ』誌、シカゴのラサール・ストリート教会の友人や同僚たちは、信仰が揺らいでいた私を受け入れ、応援してくれた。
ひとりで疑問を抱いている人たちのことを思うと、悲しくなる。
だれでも、疑いに寄り添ってくれる信頼の置ける人間が必要なのだ。
God Bless You!!
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