2023年5月11日(木)

2023年5月11日(木)


『セラピーとしての祈り』

ジャネットと私がほとんど何についても言い争っていた新婚時代を思い起こす。
そのころはまだ権力問題を調整中で、どちらも譲らなかった。
事の大小に関わらず、何を決めるにも争った。

困ってしまった私たちは、それまでうまくいったためしのなかったことを試すことにした。
祈ってみたのだ。
毎日二人で長椅子に座り、心の内側を神にぶちまけた。

私たちは、決断しなければならないことのために、その日に連絡する予定の人々のために、友人や家族のために祈った。

二人が自らを「ハイヤー・パワー」に服従させたとき、権力問題は全く新しい光を帯びた。
私たちは今や向かい合っているのでなく、神の前に並んでいた。

25年たった今も、それを実践している。

私は、旧約聖書を扱った『イエスが読んだ聖書』という本を書いた。
その中で、敵に対する復讐を求める呪いの詩篇について論じ、毎週、自宅裏手にある丘を歩く「怒りの散歩」のことを書いた。

歩きながら、自分に不当な仕打ちをした人々に対する憤りの思いを神に訴えた。
無理矢理にでも神に不快な感情を打ち明けるのは、セラピーに通じる効果があった。

「たいてい、巨大な重荷から解放されたような気持ちになる」とその本に書いた。
「不公平だという感じはもはや以前のように、自分の中にとげのように突き刺さっていない。
私はそれをだれかに−−−神に−−−向かって声に出して表現したのである。

表現しながら、思いやりの気持ちが芽生えるのを感じることもある。
神の御霊は、私自身の身勝手や人をさばこうとする気持ち、他の人々が恵みと赦しをもって扱ってくれた私自身の欠点、あわれにも限られた私の視点を教えてくださる。」

ちょうど今、その箇所を読んで、別人が書いたような驚きを感じている。
おわかりいただけると思うが、私が「怒りの散歩」をしてから数年が経過している。
今でもたいてい日曜日の午後はその丘をぶらぶら歩いている。

狐の巣を調べ、ポンデローサ松に甲虫が悪さをした形跡を探し、雪の中に動物の足跡をたどる。
そしてやはり祈るが、今、それを表すなら「賛美の散歩」と言うほうが正確だろう。

いつのまにか怒りは溶けていた。
気づかないうちに癒しが起きていたのである。

God Bless You!!


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