2023年5月10日(水)
『安全設計』
今あらためて、自分が神との関係をどのようなものであると認識していたかを考えている。
全くの見当違いなもの、あまりに短絡的なものと理解していたと思う。
子どものころから、神は成績表を渡す厳格な教師というイメージを受け継いできた。
私の目標は他の皆と同じく、完璧な点数を取って良い評価をもらうことだった。
授業中にふざけると、教室の後ろの隅に立たされるか、外の空部屋に行かされることになる。
この比喩のほとんどが聖書とは相容れず、関係を歪めるものであることを知った。
第一に、神が認めてくださるのは、私の「良い行状」によるのではなく、神の恵みによってである。
私は教師の完璧な基準に達するほどの成績を収めることは決してできないし、幸いなことに、そうする必要もないのだ。
さらに、神との関係は私の行動によってつながったり断たれたりするのでもない。
神は私が従わないからといって、外の空部屋に行かせるようなことはなさらない。
全く反対なのだ。
神から遠いところにいるように思えるときに絶望感を覚えるかもしれないが、それが神の恵みに向かう新たな出発点となる。
エリヤは神から逃れて洞穴の中ですねていたときに、叱責ではなく慰めをもたらすかすかな細い御声を聞いた。
ヨナは必死になって神から逃げようとしたが、失敗した。
そしてイエスが愛をもってペテロを立ち直らせたのは、この弟子がどん底に落ち込んでいたときだった。
私は人間関係をどう築いていくかについての自分の理解を、神に投影させる傾向がある。
裏切りは関係を永久に破壊すると言われることも含めてである。
ところが、神は裏切りにも心が挫かれることがないようだ。
(もしかして、裏切りに慣れているのかもしれない。)
イエスはペテロに言われた。
「わたしはこの岩の上に、わたしの教会を建てます」。
ルターが述べたように、私たちは常に、罪人であると同時に義人であり、改悛者である。
私たちのおずおずした口下手な愛の表現は、神の望んでおられるものに見合わないかもしれないが、親ならだれでもするように、神は子どもの差し出すものを受け入れてくださるのだ。
God Bless You!!
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