2023年4月9日(日)
『笑うべき時』
人類には少なくとも三つの特徴がある、と詩人W・H・オーデンは言った。
動物の中で私たち人間だけが、働き、笑い、祈る。
オーデンのリストは私にとって、自らを省みる素敵な枠組みだった。
働くということおいて、クリスチャンが抜きん出ているのは明らかだ。
私たちの祖先はとにかくプロテスタントの倫理を考案したのだ。
実際のところ、クリスチャンは労働倫理に重きを置き、この倫理が目に見えるものすべてを呑み込んでいる。
教会は企業のごとく運営され、静思の時はシステム手帳に書き込まれ(コンピューター・ソフトにも完璧なものがある)、牧師は日本の重役なみの慌ただしい働き方をしている。
労働はクリスチャンに許された唯一の依存症だ。
私たちは祈りの技術をとっくに習得しているはずだが、はたしてそうなのだろうか。
祈りも一つの働きにしようとする誘惑がある。
それで、多くの教会の祈りの中心がとりなしの祈りになっているのかもしれない。
耳を傾ける姿勢をとることはあまりない。
聖書にある祈り(詩篇に見られるような)は、あちこちさまよったり、繰り返したり、まとまりがないようだ。
買い物リストよりも理容室で耳にする会話に近い。
私はそんな祈りについてカトリックの人たちから学んでいる。
礼拝としての祈りをしっかりととらえているからだ。
奇妙なことに、トマス・マートン、マクリナ・ヴォーデルケール、ジェラード・マンリ・ホプキンズ、アビラのテレサのように、礼拝としての祈りを毎日ささげている人たちにとって、祈りはお決まりの仕事というよりも、終わりのない会話のようだ。
オーデンの語る人類の三番目の特徴が笑いということになると、クリスチャンは世界の後方へと身を引く。
C・S・ルイスによれば、クリスチャンは他の人々よりも大きな利点を有している。
クリスチャンでない人々ほど堕落していないからということでも、堕落した世界でいくらかましに生きているからということでもない。
堕落した世界に堕落した生きものとして生きているという自覚があるからだ、というのだ。
だからこそ、私たちは自分自身を笑い飛ばすことを忘れてはならないだろう。
人は自分の尊重するものだけをパロディーにできる。
信じているときに、不敬な物言いができるように。
笑いと祈りの共通点は多い。
笑うときも祈るときも、人は平等な地平に立っている。
自分が堕落した生きものだと率直に認めている。
私たちは自分をそれほど深刻にとらえない。
被造物としての性質を考える。
仕事は分断し、ランクづけをする。
笑いと祈りは統合する。
God Bless You!!
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