2023年4月28日(金)

2023年4月28日(金)


『二人の霊の導き手』

〔4月27日の続き〕

私はドストエフスキーの小説の中で恵みに出合った。

『罪と罰』は、軽蔑に値する犯罪に手を染める卑劣な人間を描いているが、そのラスコーリニコフの人生にも、回心した娼婦ソニアという人物を通して慰めをもたらす恵みの香りが入り込む。

ソニアはラスコーリニコフを追ってシベリアまで行き、悔い改めに導くのだ。

『白痴』の中でドストエフスキーは、てんかん持ちの侯爵という形で、風変わりで予想外のキリスト像を登場させている。

そのムイシュキン侯爵は静かに、神秘的に、ロシアの上流階級社会の中で動き、人々の偽善を暴きながら、善良さと真理をもって人々の人生を照らしもする。

『カラマーゾフの兄弟』は文学史上最高傑作の一つだが、聡明な不可知論者イワンと敬虔な弟アリョーシャを対比させている。

イワンは人類の失敗を分析し、その失敗を扱うべく考案された政治機構をことごとく批判するが、解決策を提示することができない。
アリヨーシャは、イワンが提起する知的な問題に答えられないが、人間に対する解決策をもっている。

アリョーシャは言う。
「ぼくは悪の問題に対する答えはわかりません。
でも、愛を知っています。」

私にとって、この二人のロシア人、トルストイとドストエフスキーは霊の道先案内人だ。
トルストイからは心の中を見る必要、自分の中にある神の国を見る必要を教えられている。

福音の高い理想から自分がどれほど、遠いかがわかる。
しかしドストエフスキーからは、神の恵みの絶対的な広がりを教えられる。

神の国は私の中にあるだけではない。
神ご自身がそこに住んでおられるのだ。

パウロはローマ人への手紙の中で、それをこう言い表した。
「罪の増し加わるところに、恵みも満ちあふれました」。

福音の高貴な理想と、自分自身のぞっとするような現実との緊張を解く方法は、だれにとってもたった一つしかない。

私たちは決して理想に届かないけれども、理想に到達する必要もないことを受け入れるのだ。

トルストイはそれを半分だけ正しくとらえた。
神の道徳の標準を快く感じさせるもの、「ついに私は到達した」と思わせるものは何であっても、残酷な欺瞞だ。

ドストエフスキーは、あとの半分を正しくとらえた。
すべてを赦す神の愛を不快に感じさせるものもまたすべて残酷な欺瞞なのだ。

「今や、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません」

God Bless You!!


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