2023年4月22日(土)

2023年4月22日(土)


『道徳的宇宙の新月』

イエスはトーラーを出発点としながらも、どんなパリサイ人をも上回るほど徹底して律法を推し進め、どんな修道士にもまさって律法を実践された。

山上の説教は道徳の領域に新月を持ち込み、その後、独自の重力を及ぼし続けてきた。

イエスは律法を、だれにも守れないものとされた。
そしてなお、その律法を守るようにと私たちに要求された。

いくつか例を考えてみよう。
歴史をひもとけば、人間社会には常に殺人を禁じる法律があった。
しかし、イエスのように殺人を拡大して定義することは、どの社会も考えつかなかった。

「兄弟に対して怒る者は、だれでもさばきを受けなければなりません。
『愚か者』と言う者は火の燃えるゲヘナに投げ込まれます」。

またどの社会にも、性的乱交を禁じたタブーがある。
しかしイエスが述べたほど厳格なルールを提示した社会はどこにも存在しなかった。

イエスは言われた。
「情欲を抱いて女を見る者はだれでも、心の中ですでに姦淫を犯したのです。
もし右の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出して捨てなさい。
からだの一部を失っても、全身がゲヘナに落ちないほうがよいのです」。

連続婦女暴行犯は去勢するべきだという要求を聞いたことはあっても、情欲があるから顔面を損傷させてはどうかという提案は聞いたことがない。

実際米国では、情欲は社会で認められた国民的娯楽であり、ブルージーンズやビールの広告、『スポーツ・イラストレイテッド』誌の毎年の水着特集号や、毎月二千万部を売るポルノ雑誌の中でも称賛されている。

ジョン・アップダイクは言う。
「情欲——唾液のようにはからずもわれわれの内にあふれ出す性的願望——それ自体が邪悪であるという考えは、現代人の耳になんと奇妙に聞こえることか!」

私は、山上の説教にあるこうした命令や、ほかの厳しい命令に目を凝らしては、それにどう答えたものか自問する。

イエスは本当に、私が道端で出会うどの物乞いにも施しを与えるのを望んでおられるのだろうか。
消費者の権利はいっさい放棄すべきなのか。
将来のことについては神を信頼し、保険は解約すべきなのか。
情欲の誘惑を避けるため、テレビは処分するべきなのか。

こうした理想的な倫理を、日常生活にどう当てはめればよいのか。

God Bless You!!


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