2023年4月2日(日)
『不在の大家』
マタイの福音書24章から25章に書かれている四つのたとえ話は、どれも背景に共通のテーマが潜んでいる。
それを見てみよう。
家を空ける家主、召使いに管理を任せた不在の家主、来るのが遅すぎて客たちが寝入ってしまった花婿、召使いにタラントを配って出かける主人。
イエスの四つのたとえ話は、現代の中心的な疑問を予感していた。
ニーチェ、マルクス、カミュ、ベケットが発した「神は今どこにいるのか」という疑問だ。
家主は私たちを見捨てた。
それが現代の回答だ。
私たちは自由にルールを決められる。
「隠された神」だからだ。
少し先に、もう一つのたとえ話がある。
羊とやぎのメッセージはよく知っていたが、その前に書かれているたとえ話との関連については、これまで気づかなかった。
この羊とやぎのたとえ話は、他のたとえ話の中の疑問に答えているのだ。
不在の地主の問題について、二とおりの答えを出している。
一つめは、さばきの日に地主が帰って来ることをほのめかしていることだ。
そのとき人は地獄に落ち、文字どおり支払いを行う。
二つめは、地主が帰って来るまでの間、つまり神が不在に見える何世紀にもわたる中間期に対する洞察だ。
マタイの福音書25章の答えは、深遠かつ衝撃的だ。
神は姿を隠してしまったのではなく、意外なことに、この世のよそ者、貧しい人、飢えた人、囚人、病人、疲れ果てた人になりすましておられるというのだ。
「まことに、あなたがたに言います。
あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、それも最も小さい者たちの一人にしたことは、わたしにしたのです」。
イエスの最後のたとえ話は教会に重荷を負わせているが、その重荷だけが、世界に差し出している継続的な解決である。
アナーキーには、指導者がいると言って反対しなければならない。
どこかの警官のようではない、完璧な正義をもたらす地球全体の主人である指導者がいる、と。
その主人が戻って来るまで、神の臨在を証明する働きは私たちに委ねられている。
私たちは家父長主義ではなく、愛という源泉から、困窮している場所に手を差し伸べるのだ。
God Bless You!!
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