2023年4月15日(土)
『時間の外』
私たち人間が時間に縛られていると認識するだけでも、神がヨブの「なぜ」という問いに答えてくださらなかった理由がわかってくるだろう。
代わりに神は、ヨブがやっと理解できるくらいの、宇宙の根本的な事実を語り、こう警告なさった。
「他のことは、わたしに任せなさい」と。
ヨブもアインシュタインも、あなたも私も、「上からの」見方を理解できないので、神は私たちを無知なままにしておかれるのではないだろうか。
神は、時間の外に住んでいながら、時折時間の中に踏み込んで来られる。
そういう神に、どのような「法則」が当てはまるかはわからない。
「予知」という言葉がもつ曖昧さを考えてみればいい。
神は、ヨブがご自分に忠実であり続け、例の賭けに勝つことを前もって知っておられたのか。
だとしたら、どうして本物の賭けだと言えるのだろうか。
あるいは、地球上の自然災害はどうだろうか。
災害の発生を事前にご存じであるなら、神に責任があるのではないだろうか。
しかし、私たちが単純に考えた法則を神に当てはめることはできない。
そして、これこそが、神が迫力をもってヨブに語られたことの根底にあるメッセージかもしれない。
予知という言葉そのものが、問題をさらけ出している。
厳密に言えば、神は私たちが何をするのかを「予見」されるのではない。
永遠の現在において、ご覧になるのだ。
そして、何かの出来事における神の役割を理解しようとするたびに、私たちは物事を「下から」見て、時間に依存した脆弱な善悪の基準で、神のなさることを裁いてしまう。
しかし、いつの日か、「あの飛行機を墜落させたのは神なのか」といった問題を、全く異なる光の中で見るようになるのだろう。
予知と予定をめぐるキリスト教会の長い議論は、時間内において意味をなすものであることを理解しようとする人間のぶざまさを物語っている。
もう一つの次元では、そういう問題はずいぶん違って見えるはずだ。
聖書には「上から」の視点が、きわめて神秘的な一文で示されている。
キリストは「世界の基が据えられる前から知られていました」とあり、これはアダム以前、エバ以前、堕落以前、したがって贖いが必要となる前からということだ。
また、恵みと永遠のいのちは「キリスト・イエスにおいて、私たちに時の始まりの前に与えられた」という。
何であれ、「時の始まりの前に」起こるなどと言うことができるだろうか。
神は時間を創る前に、まだ存在すらしていない、堕落した惑星を贖う準備をしておられた!
だが神は、時間に「足を踏み入れた」とき、私たちの世界の法則によって時間にとらわれて生き、そして死ななければならなかった。
God Bless You!!
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