2023年4月13日(木)
『神の御顔』
私は痛みの問題を主軸にものを書いてきた。
癒えることのない古傷を繰り返し触っているかのように、痛みの問題に舞い戻ってくる。
読者から聞く苦しい話が、私の疑念に現実味をまとわせる。
ある週、二人の男性から神に失望した経験を電話で聞いた。
一人はコロラドの青少年担当牧師で、妻と赤ん坊がエイズに罹患し、余命いくばくもないと告げられた。
彼は問うた。
「青年たちにどうやってあわれみに満ちた神を語ることができるでしょう。」
もう一人は目の不自由な人で、数か月前、回復途上の薬物依存者に同情して家へ招いた。
ところが、妻とその男が自宅で不倫をしていた事実を知ったのだという。
「神は、ご自分に仕えようとする私を罰しておられるかのようです。」
そう言ったところで、25セント硬貨がなくなり、公衆電話は切れてしまった。
それっきり、この男性から連絡はない。
私は、「なぜ」という質問に答えようとしなくなった。
なぜ青少年担当牧師の妻は、HIVに感染した血液の瓶をあてがわれたのか。
なぜ竜巻はオクラホマ州のある町を襲い、別の町を襲わないのか。
なぜある女性の子どもはボストンの公園でスケートボードに激突されたのか。
なぜ肉体の癒しを願う無数の祈りのうち、聞かれる祈りはわずかなのか。
しかし、以前ほど私の心をさいなむことがなくなった疑問がある。
「神は心配しておられるのか」だ。
この問いに答える方法を知っている。
それは私にとって決定的な答えとなった。
神はイエスの中に、御顔を見せてくださった。
その顔を見れば、うめき声をあげているこの星の苦しみについて神がどのように思っておられるか、直接読み取ることができる。
イエスはすべての苦しみを取り除かれたわけではなかった。
地球の片隅のほんのわずかな人々を癒されたにすぎない。
しかし、神が心配しておられるかどうかという疑問に対する答えは、確かに示されたのだ。
God Bless You!!
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