2023年4月10日(月)
『恵みときよさを備えた教会を求めて』
少し前のこと、インディアナ州に復元された十九世紀のユートピアコミュニティーで開かれた会議に参加した。
見事な職人芸の建物を手で触り、本物の信者の日常生活を書いた碑文を読んで私は、米国の理想主義と宗教的熱意から生まれた流れの一つである運動をもたらしたエネルギーの強さに驚かされた。
しかし近年、完全主義への強い憧れは事実上消えていることにふと気づいた。
今日、教会は反ユートピア主義とでも呼べる別の方向に傾いている。
多くの教会で12ステップのグループが作られている。
これらのグループは、参加者は完全にはなれないという無力感を基礎にできている。
はっきり言って私はこの最近の流れが好きだ。
人間は完全になるよりもはるかに失敗に陥りやすいことを見てきたうえに、恵みに基づく福音に自分の信仰をゆだねているからだ。
しかし、ほとんどのユートピアコミュニティーは今、私が立っている場所のように……博物館として残っているだけだ。
完全主義は、原罪を取り巻く垣根の周りをぐるぐる走り続けるだけだった。
どうすれば教会は聖性の理想を掲げ、きよい生活へのふさわしい努力を勧める一方で、幻滅や狭量さ、権威の濫用、霊的高慢、排他主義などに陥る危険を避けることができるのか。
逆の立場から言えば、現代の教会は共同体による(決してさばかない)支援や人の脆弱さを強調しつつ、目標が低くなりすぎないために、どんな注意を払えばよいのか。
個人主義社会の米国は、自由濫用の危険に常にさらされている。
米国の教会も恵みの濫用の危険にさらされている。
こういった疑問を胸に、私は新約聖書のエピソードを読んだ。
一世紀の教会もすでに、完全を目ざす律法主義と、厄介な無律法主義のシーソーを行ったり来たりしていた。
ヤコブは一方の極を書き、パウロはしばしばもう一方について言及している。
どの書簡も強く正しつつ主張を展開しているが、どれもが福音の二重のメッセージを強調している。
言ってみれば教会もこの双方を兼ね備えるべきだ。
きよさを目ざして励みながら恵みに安らぐ人々、自分を罪に定めるが他人はさばかない人々、自分に頼らず神に頼る人々の集まりであるべきだ。
このシーソーは今も左右に揺れている。
ある教会は一方に傾き、別の教会はもう一方に片寄っている。
新約聖書の書簡を読んで私は、両方をあわせもつ教会を切望した。
どちらかに片寄った教会ばかり、あまりにも多く見てきたからだ。
God Bless You!!
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