2023年3月5日(日)
『三度の涙』
私たちが知るかぎり、イエスは苦しみの涙を三度流しておられる。
友人のラザロが死んだとき、イエスは泣いた。
私には、相次いで三人の友人を亡くした恐ろしい年があった。
深い悲しみに慣れることなどできないことを思い知らされた。
二人の死を経験していたからといって、三人目の死が平気だったりしなかった。
悲しみは貨物列車のように私を打ち倒した。
ただあえぎ、泣くだけだった。
イエスも友人ラザロが死んだとき、同じような気持ちを味わったということが、なぜか慰めになった。
イエスはエルサレムのほうを見やり、その名高い町を待ち受けている運命を思い、涙を流された。
その込み上げてくる心の痛みの中に、娘や息子が道を踏みはずし、ことさらに自由を主張したり、それまで教えられてきた価値観をすべて否定したりするとき、親の味わう気持ちに似たものを感じる。
あるいは配偶者が去って行ったことを知ったときの痛み。
全能の神でさえ、人間に愛を強制することはおできにならないのだ。
最後に、ヘブル人への手紙はこう語っている。
イエスは「自分を死から救い出すことができる方に向かって、大きな叫び声と涙をもって祈りと願いをささげ……」。
イエス自身が私を悩ませている疑問をもたれたと言ったら言い過ぎだろうか。
ほとんどの人が一度は悩む、「神は気にかけておられるのか」という疑問を。
「わが神 わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」というあの暗い詩篇22篇からの引用は、ほかにどんな意味があるというのか。
イエスが痛みを覚えたとき、私と同じように反応されたことは、やはり不思議に慰めになる。
イエスは悲しみ、恐怖、見捨てられること、そして絶望に近づくことさえ経験された。
それでもなお、イエスは耐えた。
宇宙の中心に父なる神、物事がそのときどのように見えようとも、信頼することのできる愛の神がいることを知っておられたからだ。
苦しみを受けている人々に対するイエスの答えは、神の心の中を垣間見せてくれる。
神は感情のない絶対者ではなく、近くに来られる、愛なる御方である。
God Bless You!!
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