2023年3月25日(土)

2023年3月25日(土)


『つまずきの石』

イエスの死はキリスト教信仰の礎であり、それこそイエスが来られたことの最も重要な側面だった。

神ご自身が痛みに倒れた、十字架のような出来事に基づく宗教から、痛みや苦難の問題に役立つ助言がどれだけ引き出せるだろうか。

使徒パウロは、十字架を信仰の「つまずきの石」と呼び、歴史はその言葉の正しさを証明してきた。

ユダヤ教のラビたちは、アブラハムの息子が殺されるのを見るに忍びなかった神が、どうして自身の御子を死なせたのかと問うている。

コーランの教えによると、神はイエスを十字架にかけさせるほどおとなしくはなく、一人の悪人を代わりにしたのだという。

今日でも、米国のテレビ司会者フィル・ドナヒューは、キリスト教に反対してこう言っている。
「すべてをご存じで愛そのものである神が、なぜ私の罪を贖うために、御子を十字架上で殺させたのか。
父なる神が『愛そのもの』であるなら、なぜご自身が地上に降り、カルバリに行かなかったのか。」

こうした反対者はみな、福音の主要なポイントを見逃している。
神秘的な方法で地上に来て死んだのは、神ご自身だった。
神は「上のほう」にいて、「下界」で起こる悲劇的な事件を見ておられたのではなかった。

神は「キリストにおいて」この世をご自身と和解させた、とパウロは言った。
ルターの言葉を借りると、十字架は「神と戦う神」を見せた。

イエスがただの人間だったら、その死が証明するのは神の残酷さだ。
イエスが神の御子であったという事実が証明するのは、神は苦しむ人間と完全に一体化しているということだ。

神は十字架上で、この世の恐ろしい苦しみを吸収されたのだ。

ある人々にとっては、十字架に死んだイエスの身体は、敗北をささやいているように聞こえる。
御子の苦難を制御できない神は、どういう御方だろう。

しかし、ひときわ高く響く声が聞こえる。
神は大きな声で人間に、「わたしはあなたを愛している」と叫んでおられるのだ。

愛は、たったひとりで血を流しているイエスの中に圧縮されている。
この瞬間にも天の御使いたちを呼び下して、ご自分を救い出してもらうことができると言われたイエスは、そうすることはしなかった。

それは、私たちのためだ。
神は私たちを愛して、私たちのために、ご自分のひとり子を十字架につけるために遣わされたのだ。

こうして、ある人々には永遠のつまずきの石である十字架が、私たちの信仰の礎の石となった。
痛みや苦難がどのように神の計画に組み込まれるのかという議論は、ついには十字架にまで行き着くのだ。

God Bless You!!


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