2023年3月24日(金)

2023年3月24日(金)


『苦しむ神』

旧約聖書を読むと、神であるとはどんな「気持ちがする」かということについて、多くの洞察が得られる。
しかし新約聖書は、人間であるとはどんな気持ちがするかを神が学ばれて、起きたことを記録している。

私たちが感じることを、神も感じられたのだ。
私たちは、痛みを知っているだけでなく、痛みを共に感じてくれる神を、人間の痛みに影響を受ける神を本能的に求める。

若き神学者ディートリッヒ・ボンヘッファーはナチスの捕虜収容所に、一つのメモを残した。
「苦しんでいる神だけが、助けることができる。」

イエスのおかげで、私たちはそのような神を得ることができた。

ヘブル人への手紙は、神は今や私たちの弱さに共感できると告げている。
共感という言葉自体が、どのようにそれがなされたかを表現している。

「共感」〔訳注=原語 sympathy〕は、symとpathosという二つのギリシア語に由来し、「共に苦しむ」ことを意味している。

神はイエスのゆえに、ご自分に失望する私たち人間の気持ちを理解された。

このように言ったら言い過ぎだろうか。
しかしそれ以外に、イエスの涙や十字架上の叫びをどう解釈できるだろう。

神が不公平で、沈黙し、隠れているように思えるという問いかけを、あの「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という、恐ろしい叫びに移し変えることができるかもしれない。

御子は苦しみを通して「従順を学ばれた」とヘブル人への手紙は言う。

人は、不従順への誘惑を受けたときにのみ、従順を学ぶことができ、逃亡への誘惑を受けたときにのみ、勇気を学ぶことができるのだ。

イエスはなぜゲッセマネで、剣を振り回さず天使の軍勢を招集されなかったのだろう。
なぜこの世を驚嘆させてみろというサタンの挑戦を退けられたのか。

サタンの挑発に乗っていたら、イエスにとって最も重要な使命である、私たちの一人となり、私たちの一人として生きて死ぬことに失敗することになるからだ。

それは、神が創造の時に設けられた「制限の中で」働くことができる、たった一つの方法だったのだ。

聖書全巻を通して、とりわけ預言書において、神の中に荒れ狂う葛藤が見える。
神はご自身の造った人間を熱く愛されたが、他方でその人間を隷属させる悪を破壊したいという激しい衝動に駆られていた。

十字架の上で、神はご自分の内側の葛藤に決着をおつけになった。
十字架上で御子が破壊的な力を吸収し、それを愛に変えたからだ。

God Bless You!!


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