2023年3月23日(木)

2023年3月23日(木)


『痛みの魔法』

キリスト教には、イエスの生と死を抜きにしてはほとんど意味をなさない逆説がいくつかある。

たとえばこんな逆説がある。
貧困や苦しみは、生涯をかけて闘ってもおかしくない「悪いこと」であるが、それと同時に「祝福」であるとも言える。

この悪いことが良いことに変わるパターンは、イエスに完全に現れている。
イエスは痛みを身に引き受けることによってそれに尊厳を与え、それがどのように変わり得るかを示された。

イエスはご自分の与えた模範に、私たちが倣うことを望んでおられる。
イエス・キリストは、苦しみについて聖書が与えている教えすべての完璧な模範だ。

イエスがおられるので、私は、ある人が「犯した罪のゆえに苦しんでいるに違いない」などとは言えない。
イエスは罪を犯さなかったが、痛みを感じられた。

竜巻は異教徒の隣人宅を襲っても、その手前にある私の家は避けて通るとか、クリスチャンは病原菌に決して感染しないとかと、神は約束されることはない。

私たちはこの世の悲劇から免れはしない。
神も免れなかったのだから。

思い起こそう。
キリストが苦しみを受けることをペテロがいさめたときに、イエスはそのことを強く叱責された。

私たちは痛みを感じるときに激しい怒りを覚える。
イエスもそうだった。
だから癒しの奇跡を行われた。

イエスはゲッセマネで「この苦しむ機会を感謝します」とは祈らず、苦しみから逃れられるように懇願された。
それでも、より高い使命を果たすために、進んで苦しみを引き受けられた。

最後にイエスは難しい問題(「もしも他の道があるなら……」を父なる神の御旨にゆだね、ご自分の死という衝撃的なことも、良きことのために用いることがおできになる神を信頼された。

歴史は最後に思わぬ展開を見せた。
罪のない子なる神が衝撃的にも処刑されるという、起こり得る最悪のことを、悪と死に対する最終的な勝利に変えられた。

それは前例のない、巧妙な行為、悪のたくらみを善に仕えるものに変える行為だった。
その中に私たちすべての者に対する約束がある行為だった。

十字架という想像を絶する苦しみは、完全に贖われた。
私たちはイエスの「傷」によって癒され、イエスの弱さによって強い者とされるのだ。

God Bless You!!


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