2023年3月20日(月)
『名前のない日』
私の育った教会は受難週を足早に飛び越え、イースターのシンバルの音を聞く。
聖金曜日に礼拝がもたれたことはなかった。
聖餐式を祝うのは三か月に一度きりだった。
イースターにいちばん良い服を着て、賛美歌を大声で歌い、教会堂に特別の飾りつけをした。
福音書を研究してわかったのは、私の教会とは異なり、聖書の記録は受難週に近づくと歩みを速めるどころか遅くしているということだった。
キリスト教の初期のある注解者は、福音書は長々しい前置きをして、イエスの最後の週を時系列で記している、と言った。
著述家であり説教者でもあるトニー・カンポロが刺激的な説教をしている。
「今日は聖金曜日だが、日曜日が来る。」
カンポロは続ける。
「金曜日と日曜日の両日を生きた弟子たちは学んだ。
神が最も不在であるように思えるときに、実は最も近くにおられるのかもしれない。
神が最も無力に思えるときに、実は最も力強いのかもしれない。
神がまさが死んでいるように思えるときに、よみがえっておられるのかもしれない、と。
弟子たちは、二度と神抜きに考えてはならないことを学んだのだ。」
ところがカンポロの説教では、一日が飛ばされている。
金曜日と日曜日は、聖金曜日とイースターの日曜日として教会暦に名前を残しているが、本当の意味で私たちは名前のない土曜日に生きているのだ。
福音書の記者たちが、復活して姿を現した数週間よりも、イエスの最後の週にはるかに多くの紙面を割いている理由は、そこにあったのかもしれない。
彼らは、その後の歴史が、喜びの日である日曜日よりも、間に挟まれた土曜日に似ていることが多いことを知っていたのだ。
スーダンやルワンダ、地上で最も豊かな国にスラム街がある世界から、神聖で美しく、良きものを神は創り出すことがおできになると信じられるだろうか。
間の歴史は、約束の時間とその成就の時間の間でだらだらと進む。
地球の今は土曜日だ。
日曜日ははたして来るだろうか。
God Bless You!!
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