2023年3月16日(木)
『恥という試練』
第二次世界大戦前の時代の回想録でピエール・ヴァン・パーセンは、ナチスの突撃隊員によって行われた屈辱的な行為について語っている。
隊員らは、ある老齢のユダヤ人ラビを捕らえ、突撃隊本部へと引っ張って行った。
その部屋の片隅では、二人の隊員が別のユダヤ人を死ぬほど殴っていた。
しかし、ラビを捕らえた者たちは、ラビの服をはぎとって裸にすると、次の安息日にシナゴーグで行うつもりだった説教をやれと命じたのである。
ラビが、礼拝の時に頭にのせるヤムルカ帽を着用してよいかと尋ねると、ナチス党員はにやりと笑って承諾した。
おふざけも増すというわけだった。
ラビは震えながら、かすれ声で、神の前にへりくだって歩むとはどういうことか、説教をし始めた。
その間ずっと、ナチス党員たちからつつかれたり、はやしたてられたりし、また部屋の隅からは同胞の断末魔の声が聞こえていた。
イエスの投獄、拷問、処刑という福音書の記事を読むとき、突撃隊本部で裸のまま屈辱に耐えていたラビのことを考える。
この侮辱、神の御子が地上で耐えた「恥」の深さは測り難い。
神の御子は裸にされ、鞭打たれ、唾を吐きかけられ、顔を殴られ、茨の冠をかぶせられた。
ローマ人ばかりでなくユダヤ人指導者にも、犠牲者に有罪判決の出されているこの犯罪を滑稽にまねて嘲笑してやろうという思いがあった。
「メシアだって。そいつはすごい。預言を聞こうじゃないか。」
ガツン。
「だれが殴ったんだ、おい。」
ドスッ。
「ほら、言ってみろ。吐いてみな、預言者さんよ。メシアと言うわりに、ろくにわかっちゃないんだな。」
そんなことが一日中続いた。
大祭司の屋敷の庭で、目隠し鬼の遊びをしていじめたり、ピラトとヘロデの衛兵たちが玄人はだしの暴力行為を働いたりした。
カルバリへ、そして最終的に十字架に続く長い道のりをつまずきながら上って行く犯罪者たちに、見物人たちは口笛を吹いたり、野次ったりした。
十字架にかけられたイエスは、次々と浴びせかけられる愚弄する声を聞いたし、横に並んでいる十字架からも嘲りを聞いた。
神が歴史を通してずっと自制を守っているのを私は不思議に思い、ときにはそれを問題視してきた。
神の自制は、チンギス・ハーンやヒトラーやスターリンのような人間が、思うままにふるまうのを許された。
しかし、あのエルサレムの暗い金曜日に現された自制にたとえられるものはない。
本当に何もない。
イエスは鞭で打たれるたびに、拳で身体に強烈な一撃をくらうたびに、心の中で荒野やゲッセマネでの誘惑を再現していたに違いない。
天使の軍勢はイエスの命令を待っていた。
イエスの一言で、この厳しい試練は終わるのだった。
God Bless You!!
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