2023年3月14日(火)

2023年3月14日(火)


『隠れておられる神』

神の臨在を切に求める人間の思いは、どこにでもあるようだ。
だが、神の臨在を感じない時があることを考えずに、神がすぐそばにおられる約束だけを強調することはできない。

偉大な聖徒たちも神の不在を経験した。
ヨブも経験した。
おそらくだれもが、神が隠れておられるという事実に直面することがあるはずだ。

神は隠れておられるわけではないと言う人たちもいる。
信仰の言葉を記したこんなバンパーステッカーを見た。
「神が遠いと感じるなら、だれが動いたか考えてごらん。」

しかし、この言葉に暗示されている罪意識は、誤った罪責感かもしれない。

ヨブ記は、動いたのが明らかに神であることを語っている。
ヨブは何も間違ったことをしておらず、必死に助けを求めたのに、神はあえてお隠れになった。

信仰の旅路では、当然、神が隠れておられるという状態に遭遇する。
このことを信じられないなら、神との親しい交わりの中で人生を送ったキリスト教神秘主義者の著作に目を通せば、すぐ納得するだろう。

厳しい試練の時期、「たましいの暗黒の夜」について語っていない人を、一人でも見つけられるだろうか。
苦しむ人たちに、そしてそういう人の傍らに立つ人々に、ヨブは重要な教訓を示している。

疑問や不満は正当な反応であって、信仰が弱いためではない。
実際、当然であるがゆえに、神は聖書の中に、こうした疑問や不平を書き込まれたのだ。

マーク・トウェインの『地球からの手紙』や、バートランド・ラッセルの『宗教は必要か」といった書物に記されている、神に敵対する者たちの主張が、聖書の中にあるなどと、もちろんだれも思わないだろう。
けれども実際、神に敵対する主張が、ヨブ記だけでなく詩篇や預言書にも多く書かれている。

聖書は、私たちの失望を予期しているかのようだ。
それは、神がご自身に対して向けられる武器を前もって私たちに与えているかのようであり、神ご自身、信仰を維持するための代価がわかっておられるかのようだ。

そして、イエスのゆえに神はわかっておられるのだろう。
ゲッセマネとカルバリで、神ご自身が言語に絶するかたちで、神が隠れている状況に立ち向かわれた。

「神と戦う神」とは、十字に組み合わせた二本の木の上でなされた宇宙規模の戦いをマルティン・ルターが
要約して表現した言葉だ。

その暗黒の夜、神は自ら、神に見捨てられると、どういう思いを味わうか、身をもって経験された。

God Bless You!!


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