2023年3月10日(金)

2023年3月10日(金)


『イエスの仲間』

イエスは罪人の友だった。
彼らはイエスのそばにいるのが好きで、イエスが一緒にいてくださることを望んだ。

一方、律法主義者たちはイエスのことを不愉快きわまりなく、吐き気をもよおすとまで思った。

私たちが見失ってしまったイエスの秘密とは何だろうか。
「仲間を見れば、その人がわかる」と、ことわざは言う。
その原則を、ナザレのイエスに当てはめようとした一世紀パレスチナの人々の仰天ぶりを想像してみるがいい。

福音書は、イエスが夕食の招待に応じた八つの場面を記している。
そのうち三つは、友だち同士が交流する普通の場面だが、あとの五つは、社会上妥当とされるルールをすべて無視している。

イエスは「ツァラアトに冒された人シモン」と食事をされたことがあった。
パレスチナでは、情け容赦のない戒律が、ツァラアトを不名誉なものと決めつけていた。
この病に苦しむ者は町の壁の外で暮らし、だれかに近づくときは「汚れています!」と叫ばなければならなかった。

しかしイエスはそうしたルールを無視し、この不名誉な病を名前につけられた男のテーブルに寄りかかられた。

なお悪いことに、その食事の間、評判の芳しくない女性がイエスの頭に高価な香水をふりかけた。
マルコによると、イスカリオテのユダは嫌悪を覚えて席を立ち、真っ直ぐ大祭司のところへ向かってイエスを裏切ったという。

少なくともあと一回、イエスは著名なパリサイ人のもてなしを受けておられる。
ユダヤ教の指導者たちは二重スパイのように、イエスの後をつけたり食事に招いたりしながら、その挙動に逐一、目を光らせていた。

安息日であるにもかかわらず、イエスはまるで挑発するかのように、水腫を患う男を癒された。
そして、立身出世をはかろうとするパリサイ人の宴会と、「貧しい人たち、からだの不自由な人たち、足の不自由な人たち、目の見えない人たち」にまで対象を広げて催される神の宴会との痛烈な違いを浮き彫りにされた。

福音書は、ほかのすぐれた市民との食事は記録していないが、それがなぜなのか私には容易にわかる。
イエスは、ご機嫌とりをする晩餐の客としては、用なし同然であられたのだ。

God Bless You!!


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