2023年2月28日(火)・29日(火)

2023年2月28日(火)


『何よりも大切なこと』

〔2月27日の続き〕

事故の知らせが伝わり、数か月にわたって、友人や家族、会ったこともない人々から多くの支えをいただいた。

書くという行為をするとき、私は自分のたましいから何かを印刷されたページに注いでいる。
そして届けられたカードや手紙を通して、会ったことのない人々とも驚くべき絆を作れることを理解した。

ある人は、クエーカー教徒たちが私のためにこんなことをしていると書いてくれた。
「あなたを光の中で抱きしめています。」
本当に抱きしめられているように感じた。

妻はホスピスのチャプレンとして働きながら、死に際して、信仰をもつ人ともたない人とでは、ふるまい方が驚くほど異なるのを見てきた。

恐怖や苦痛や深い悲しみを感じることに変わりはない。
しかし、クリスチャンには、祈りを通して神秘的なつながりが与えられていることがわかる。

ホスピスを訪れる人の「あなたのためにお祈りします。本当に、毎日」という言葉と、だれかの「幸運を祈ります。お大事に」という言葉の違いがそこにはある。

最近、多くの著述家たちが、一種の勝利主義者の無神論を吹聴している。
無神論を選択する人がいることは理解できるが、そのような立場がなぜ良き知らせのように見えるのか、吹聴する価値があるものに見えるのか、理解に苦しむ。

ボディーボードに縛り付けられ、なすすべもなく横たわっていたとき、私は、なんともやるせない孤独を感じながらも、私を愛し、死の向こうに未来を約束してくださっている神の御手の中に横たわっているという信仰があった。

私は、縛られて横たわっていたあの七時間に見た、鮮明な幻を忘れないようにしている。
生死を分ける糸がいかに細いか、そして自分がこの旅路においてひとりではないことを知っていることが、どれほど慰めをもたらすかがわかった。

こうした事柄を心の奥深くに刻み込んだのだ。

私たちが多くの時間とエネルギーを費やしていること(財産、イメージ、業績)は、差し迫った死を前にすれば、ほとんど意味がない。

大切なことは、結局いくつかの基本的な問いになる。

「だれを愛しているだろうか。」
「だれと会いたいだろうか。」
「どのように生きてきただろうか。」
「次の世に備えているだろうか。」

毎日机に座って書類の山と、点滅している電子メッセージを見るときにも、私はこれらの問いをどれだけ重要な位置に置いておけるだろうか。

God Bless You!!


2023年2月29日

『チェスの達人』

高校時代、チェスの腕前には自信があった。
チェス・クラブに所属し、昼休みには仲間のチェスおたくと攻略本を夢中で読んでいた。
いろいろなテクニックを研究し、ほとんどの試合に勝ってから20年は試合から遠ざかっていた。

その後シカゴで、高校時代から腕を磨いてきた本物のチェス・プレイヤーに出会った。
数試合を交え、達人と戦う現実を思い知らされた。

どのような古典的な攻撃をしかけても、古典的な手法で防衛された。
より危険な、正統的でないテクニックに転ずると、私の大胆な攻めは、相手を勝利に導く戦略に組み入れられた。

どんな動きをすることもできたが、私の戦術はどれ一つ、たいした役に立たないことがすぐにわかった。
彼の優れた技術をもってすれば、私の意図したことはどれも彼の戦略に有利に働いた。

神も私たちの宇宙に、創造物に、同じように関わっておられるのかもしれない。
神は私たちに、本来のデザインに反逆する自由を与えてくださったが、私たちはたとえ反逆しても、結局は回復という最終目的に使われる。

その青写真を受け入れるなら…… 信仰の大ジャンプであると、私は告白する ……良いことが起きても悪いことが起きても、それに対する私の見方を変える。

健康、才能、金銭といった良きものを、私は神の目的に仕えるためのささげ物として神に進呈することができる。

そして悪い事柄も…… 不能、貧困、家族の機能不全、失敗 ……私を神へ向かわせる道具として「贖われ」得る。

多くの人たちが、執拗な誘惑、依存症ですら、自分を神に向かわせる傷であることに気づいている。
その傷が、新しい創造物となるためのスタート地点になるのだ。

目に余る合理化だといって、懐疑論者から非難されるかもしれない。
結論を先取りしているのだ、と。

そのとおりだ。
クリスチャンは、善良な神が創造物を本来のデザインに回復させるという結論から始め、あらゆる歴史を、その目的に向かって進んでいるものと見る。

偉大なる達人がチェスのアマチュアと対戦すれば、盤上の形勢がいつ、どうなっても、勝利が約束されている。

God Bless You!!


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