2023年2月19日(日)

2023年2月19日(日)


『自分を否定すること』

イエスのために自分のいのちを失う必要があるというイエスの言葉は、何を暗示しているのだろうか。
長年にわたってしっかりと理解してきた自己を否定し、十字架をとり、わたしに従いなさいというイエスの言葉は、どういう意味なのだろうか。

自己を否定するという言葉で、イエスは何か重要なことを言おうとしておられた。
そうでなければ、福音書の記者たちはこの言葉をあれほど繰り返しはしなかっただろう。

熟考した結果、イエスは次のようなことを言おうとしておられたと結論した。

自己否定はまず基本的アイデンティティーと衝突する。
私は本来利己的な生きものであり、この世に二つとない身体と人格をもって生きている。

そのため、ある観点から世界を見るようになる。
物事がいかに自分の見方に適合するかを基準に価値判断をし、周りの人々に自分の好き嫌いを押しつける。

C・S・ルイスは「Xとのトラブル」という随筆の中で、私たちはだれと出会っても、その人に決定的な欠点を見つける。
最も親しい友人たちにも欠点を見つけるものだ、と指摘している。

「彼はいいやつだし、一緒にいて楽しい。
あいつは……が玉に瑕だ。」

それでいて自分には決定的な欠点を見いださない。
自分の弱さを合理化し、育った環境や、良かれと思ってしたことに触れて、やり過ごす。

「自分を否定すること」は、自分のもつ決定的な欠点を、洗いざらい、悔いながら受け入れるところから始まる。

業績、知識、称賛されるべき特質があっても、自分が今まで生きてきただれとも変わらないことを認識する、謙虚な地平に立たなければならない。

私は罪人なのだ。

キリスト教においてこれほど困難なつまずきの石は考えられない。
キリスト教の愛の倫理で人々を鼓舞することはそれほど難しくはない。
多くのリベラルなヒューマニズムが同様の感情に基づいて打ち立てられている。

しかし、私の中にある自己防衛のメカニズムは、自分が罪人であることを認めるという、痛みを伴うこの段階に抗い、叫び声をあげる。

こうするなかで、私は見方を喪失し、ただ神に反逆する者となるのだ。

〔2月20日へ続く〕

God Bless You!!


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