2023年2月18日(土)
『奇跡の限界』
イエスはいつでも不思議なわざを行えたのに、奇跡に対して相反する思いをもっておられたようだ。
弟子と一緒にいたときは、奇跡をご自分がだれであるかということの証明とされた。
(「わたしが父のうちにいて、父がわたしのうちにおられると、わたしが言うのを信じなさい。
信じられないのなら、わざのゆえに信じなさい」)。
だが奇跡を行ったときでも、そのことを重視されないことがよくあった。
マルコの福音書には、癒した者に「だれにも言ってはならない」と言った場面が七つ記されている。
イエスは、モーセやエリヤの時代に、奇跡が浅薄な結果しかもたらさなかったことをよく知っておられたのだ。
奇跡はたしかに群衆を引きつける。
だが、長続きする信仰を鼓舞することはまれだ。
イエスが携えてきたのは、従順と犠牲という受け入れることが難しいメッセージであり、刺激を求めている人のための見せ物などではない。
(今日にとても似ているが、イエスの時代の懐疑論者は、イエスの力を彼らなりにうまく説明した。)
聖書の記事は一貫して、多くの人がなお切望し、劇的で、えも言われぬ奇跡は、決して深い信仰を育まないと述べている。
イエスの顔が太陽のように輝き、その衣が目も眩むほどまぶしく輝いた山上の変貌は、その一番の例だ。
なんと大昔に死んだユダヤ史上の偉人であるモーセとエリヤが、雲の中に現れた。
そして神は、弟子たちに聞こえるように語られた。
弟子たちはこれに耐えられず、恐怖のあまり地に倒れた。
しかし、この驚くべき出来事がペテロ、ヤコブ、ヨハネにどんな影響を与えただろうか。
彼らの疑問に永遠の終止符を打ち、彼らを信仰に満ちあふれさせただろうか。
その数週間後、イエスが彼らを最も必要としたとき、みなイエスを見捨てたのだ。
イエスの奇跡は、対象を選ぶことが多かった。
そして、それは人間の失望をすべて解決はしないが、イエスの使命の「しるし」であり、神がいつの日かすべての被造物に行われることの予告でもあった。
シャンデリアの掃除のように屋根から吊り降ろされた身体の麻痺した人のように、奇跡を経験した人にとって、癒しとは神が地球を訪れてくださったことの、納得のゆく証拠であった。
他の人々には、癒しは切望を呼び覚ました。
すべてが回復される日に、痛みや死が終焉を迎えて初めて満たされる切望を。
奇跡はイエスの予告どおりに起こった。
イエスを信じた人には、さらに信じる理由となったが、イエスを拒否した人には大した違いをもたらさなかった。
信じなければ見えないものがある。
God Bless You!!
a:15 t:1 y:0