2023年2月13日(月)
『子どもと恋人』
「素晴らしいニュースがあるの」と友人に呼びとめられ、一歳になった彼女の甥っ子が初めて歩いた話を十分も聞かされた。
「あの子、歩けるのよ!」
これを立ち聞きした人はどれほど奇異な印象をもったことだろうと、あとで思った。
普通はだれだって歩けるのだ。
歩けることは、そんなに大ごとだったのだろうか。
考えてみれば、幼児期はめったにない贅沢を、そしてその後の人生で消え失せてしまう特別な性質のものを与えてくれる時期である。
再び特別なスポットライトが当てられるのは、恋に落ちた時かもしれない。
恋人には、ほくろの一つ一つが可愛く、変てこな趣味も活き活きとした好奇心の現れだと思う。
私たちは再び特別な存在としてたたえられるようになる。
倦怠期がやってくるまでは。
子どもや恋人の扱いについて考えていたら、聖書の隠喩の的確さがよりわかってきた。
神は人間との相互関係を描くのに、「子ども」や「恋人」という言葉を選んでおられる。
旧約聖書は、花婿と花嫁にたとえた描写にあふれている。
神は人間に言い寄り、恋人を愛するように人間を溺愛される。
人間がこれに応えないと神は傷つき、捨てられた恋人のように拒絶された思いを味わわれる。
新約聖書も同じように、しばしば教会を「キリストの花嫁」にたとえている。
隠喩を変えて、私たちが立派な相続人として権利と特権を与えられた神の子どもであるとも宣言している。
イエス(神のひとり子)が来られたのは、私たちが弟子となって神の家族に娘や息子として迎え入れられるためだ、と言われている。
神はわが子や恋人を見るようなまなざしで、私たちのことを見ておられる。
神の許容量は人間のそれと異なり、無限大だ。
神はあらゆる創造物を、特別に扱うことがおできになる。
聖書を読めば、神は果てしない欲求を、一人ひとりの人間を愛することで満たしておられる。
初めて歩き出す子どもの様子をわくわくしながら見つめる親のように、おぼつかなげに霊の「一歩」を踏み出す私の様子を神が見ておられるのだろう。
宇宙の謎が明らかになるとき、親の愛と恋人の愛の根底にある目的もわかるかもしれない。
神はただ無限の愛の可能性を私たちに気づかせるために、こうした特別な時を下さっているのかもしれない。
この地上で経験する最も親密な愛からうかがい知れるのは、神の愛のほんの一部にすぎない。
God Bless You!!
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