2023年2月11日(土)
『自制という奇跡』
イエスを知れば知るほど、イワン・カラマーゾフが「自制の奇跡」と呼んだものに感銘を受けるようになった。
サタンの持ち出した奇跡、パリサイ人の要求したしるしや不思議、私が望んでやまない決定的な証明。
そういったものを全能の神が行っても何ら支障はないはずだ。
さらに驚くべきなのは、イエスが奇跡を起こしたり人々を圧倒しようとしたりされなかったことだ。
神はあくまで人間の自由にこだわり、神が存在しないかのように生きる力を人間にお与えになった。
神の顔に唾をかけたり、神を処刑したりする力を授けられたのだ。
イエスは自らの強大な力を自制するエネルギーを注いで荒野の誘惑を退けたとき、このすべてを知っていたに違いない。
全能であることを派手に見せびらかしたところで、ご自分の望むような反応を勝ち得ることができないため、神はそういう自制にこだわったのであろう。
力は服従を強いるが、愛の答えを呼び寄せることができるのは愛だけだ。
愛による応答こそ、神が私たちに求めているものであるし、神が私たちを造られた理由なのだ。
「わたしが地上から上げられるとき、わたしはすべての人を自分のもとに引き寄せます」とイエスは言われた。
そしてこう続ける。
「これは、ご自分がどのような死に方で死ぬことになるかを示して、言われたのである」。
神の本質は自らを与えることであり、その要請の根本に犠牲愛を置かれた。
一人の悲嘆にくれた男性から、放蕩する息子の話を聞いたことがある。
その息子ジェイクは仕事が長続きせず、薬とアルコールに稼ぎを費やし、家にもろくに電話をかけてこなかった。
ジェイクの父親がもらした無力感を湛えた言葉は、イエスがエルサレムについて発した言葉にも似ていた。
「あいつを連れ戻してさえやれば、ここにいさせて、どれだけ大事に思っているかわからせてやれるものを。」
そう言ってからこう付け加えた。
「おかしなことだが、拒絶されても、ほかのまともな三人の子どもたちより、ジェイクの愛のほうが私には大事に思えるんだ。
変だろう?
愛なんて、そんなもんさ。」
その最後の言葉に、どんな神義論の本にもまさる、神の自制の神秘についての洞察を感じる。
神はなぜ、正義の仇討ちをするよりも、ゆっくりと励ますようにして義を育まれるのだろうか。
「愛なんて、そんなもんさ。」
愛には愛独自の力がある。
人間の心を根本から征服することのできる、たった一つの力なのだ。
God Bless You!!
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