2023年1月8日(日)

2023年1月8日(日)


『いのちを得ること』

「神の栄光とは、人が完全に活き活きとしていることだ」と言ったのは、二世紀の神学者エイレナイオスだ。
悲しいかな、この描写は、現代のクリスチャンに対して多くの人々が抱くイメージを反映してはいない。

人々はそれが正しいにせよ誤っているにせよ、私たちをどちらかというと、控え目で、堅苦しく、抑制的だと思っている——バイタリティーあふれる人ではなく、「それは駄目ですよ」と指を振る人のように見ている。

いのちを強めるどころか、いのちを圧し潰すような人という評判を、クリスチャンが得てしまったのはなぜだろうか。

イエスご自身はこう約束された。
「わたしが来たのは、羊たちがいのちを得るため、それも豊かに得るためです」。

その豊かないのちを、私たちはなぜ理解していないのだろうか。

作家フレデリック・ビュークナーは、あるとき自分の文章力を聖人たちの人生の探究にささげることにした。
最初に選んだ三人の聖人——ブレンダン、ゴドリク、聖書に登場するヤコブ——に彼は驚いた。
研究を進めれば進めるほど、彼らのとんでもない過去が現れてきたからだ。

道徳的とはとても言えないこの三人を、聖人にしたものとは何だろうか。
ビュークナーは問うた。

そして最終的に行き着いたのが、「いのちを与える人」という言葉だった。
この三人はそれぞれ情熱的で危険を冒しながらも、勇気をもち、周囲にいる人々は活力を得ていった。

ビュークナーによる聖人の定義を聞いたときに、私はすぐに友人のボブのことを思った。
ボブの両親は、「みことば」や教会で過ごす時間が少なすぎるといって、息子の霊的状態を心配していた。

けれども、私は彼ほど活力に満ちた人間を知らない。
彼は迷い動物を引き取り、友人たちのために大工仕事を行い、山登りやスカイダイビングをし、料理を習い、自分で家を建てた。

ボブはめったに宗教的な言葉を使わなかったが、私も含めて彼の周りにいる人々はみな、彼と過ごすと、生きている実感が強まった。
彼は、神が感じておられるに違いない物質の世界への喜びを発散していた。

ビュークナーの定義によれば、ボブは確かに聖人だった。
いのちを与えるクリスチャンはほかにもいる。
ジャック・マコンネルという敬虔な長老派のクリスチャンは、結核を調べるタインテストを発明し、ティレノールとMRIの開発を助け、引退後は、引退した医師を募って、貧しい人々を診る無料診療所の開設に尽力した。

私は海外で、自分で車の修理をし、数か国語を操り、地元の動植物を研究し、医者のいない地域において注射も打つ宣教師たちに出会った。

こうしたいのちを与える人々は、アメリカの堅苦しい教会には馴染まないことが多い。
逆説的ではあるが、私の知っているいのちを与える人々は、彼ら自身がとても豊かないのちをもっているのである。

God Bless You!!


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