2023年1月3日(火)
『信仰の拡大鏡』
私はイエスを自分の信仰の「拡大鏡」としても思い描いているが、このことについて少し説明する必要があるだろう。
「オックスフォード英語辞典」を所有していることは私の自慢である。
この辞典には、英語の言葉が余すところなく網羅されている。
ブック・クラブの会員なので、特別の縮刷版を、たった39ドル95セントで手に入れることができた。
この一冊に辞典の全文が入っているが、あまりに縮小されているため、文字が小さくなりすぎ、何らかの助けがないと、肉眼で読めない代物だ。
それで拡大鏡を購入した。
宝石鑑定士が使うような回転式のアームに取り付けられた、ディナー用の大皿ほどの大きさのものだ。
手で持てるもう一つの拡大鏡を一緒に使えば、どんな単語の微妙な意味の違いも熟読することができる。
辞書を使いながら、拡大鏡について学んだことがある。
ある単語の上に拡大鏡をかざすと、真ん中にある小さな印刷文字は鮮明に見えるのだが、周辺部はだんだん歪んでいくのである。
それと全く同じように、イエスが私の信仰の中心になって、私は信仰という拡大鏡をイエスにかざすことが増えるようになった。
もの書きとしてのキャリアばかりでなく、霊の旅路においても、私は長い間周辺部にとどまり、痛みの問題、祈りという難問、神の摂理対自由意志の問題など、答えられない疑問について思考を重ねてきた。
そんなことをしていると、すべてがぼんやりかすんでしまう。
ところが、イエスに目を向けると、明晰さが取り戻されるのである。
実は私は、標準的なキリスト教の教義の多くに悩まされている。
地獄はどんなところだろうか。
イエスのことを何も知らないまま息を引き取った人たちはいったいどうなるのだろうか。
アウグスティヌスのメンターであり、死の床で神のさばきを恐れるかと聞かれた司教アンブロシウスの答えを参考にしようとも考えた。
「私たちには良き師がおられます」と、アンブロシウスは微笑んで答えたという。
私はイエスを知って、疑問や葛藤を抱えつつ神を信頼するようになる。
逃げているように聞こえても、この表現が、新約聖書がイエスを中心にしていることを正確に反映しているのではないだろうか。
私たちはイエスを中心点としてスタートし、目を注意深く周辺部に移していくのだ。
イエスに目を向けると、神が地上で起こっていることをどうご覧になっているかについて洞察を与えられる。
イエスは、私たちが誤解しようのない仕方で、神の本質を表しておられるのでる。
God Bless You!!
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