2023年1月18日(水)
『振り返ると』
何冊かの本を書くことになった状況を考える。
『痛むとき、神はどこに』は、ひとつの拒否がきっかけで出版されることとなった。
1975年、私は本にできそうな素晴らしい着想を得たと思った。
「死に臨んでの祈り」という、ジョン・ダンが命に関わる病に倒れたときに書いた宗教詩に出合った。
テーマは秀逸だったが、英欽定訳聖書と同じ、読者の多くには理解できない英語で書かれていた。
いくつかの出版社に手紙を書き、ケネス・テイラーが英欽定訳聖書をわかりやすく書き直したように、ダンの『宗教詩』もそうしてはどうかともちかけた。
たとえば『現代のダン』や『翻案ジョン・ダン』などどうか、と。
じっくり試訳もしてみた。
しかし、みな口を揃えて、文学の演習には良い考えだが、現代書籍としては売り物にならないと言った。
当時の上司ハロルド・マイラが前向きな助言をくれた。
「問題は、言葉の古さではない。
内容ばかりか考え方まで古臭いことだ。
現代の例を用いて、痛みと苦しみの問題に関する本を君が書けばいいじゃないか」と。
こうして生まれたのが『痛むとき、神はどこに』である。
ダンの本を研究していたとき、痛みの問題の世界的権威であったポール・ブランド博士に出会った。
出会いは「偶然」だった。
妻がキリスト教救援組織の備品保管用の小部屋を掃除していたときのことだ。
「あなたの好きそうな、痛みに関する記事がこの国際会議の報告書に載っているわよ。」
ブランド博士の独創的な視点はとても魅力的で、私はいち早く博士と会う手はずを整えた。
最終的には、博士が20年も書類入れに保管していた、デボーションの話の色褪せた原稿の存在を知ることとなった。
その原稿をもとに、『人間のからだ』や『神のかたちに』が世に出たのである。
振り返ってみると、それやあれや多くの選択をしたときに、明らかに神の御手があったと思う。
導きとは先を見ることだと、いつも思っていた。
けれど経験から思うのは、その方向は逆であるということだ。
私にとって導きは、振り返ったときに初めて明らかになる。
今このとき私は神との関係にいちばん関心がある。
自分は従順と信頼をもって応えているだろうか。
「人生は後ろ向きに理解されなければならない……
人生は前向きに生きられなければならない」とは、キェルケゴールの言葉である。
God Bless You!!
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