2023年1月17日(火)
『夜の導き』
告白しなければならないことがある。
少なくとも私にとって導きは、何か月も何年も後になって振り返って初めて明らかになるということだ。
後になると、遠回りしたプロセスのつじつまが合い、神の御手が明らかに見えてくる。
だが決断をするときに感じるのは、混乱と不確実性ばかりだ。
思えば人生で受けた導きのほとんどが、かすかで間接的なものだった。
たとえば、仕事に就いてからの大きな転機を考える。
『キャンパス・ライフ』誌で働いていたとき、常に、相容れない二つの方向から引つ張られているように感じていた。
一方は私を経営、事業、マーケティング、会計へと引つ張り、もう一方は編集や執筆へと引つ張った。
数か月その両方をやってみたが、決断できなかった。
どちらの分野もやりがいがあり、同じくらいの報酬を提供してくれた。
どちらの働きも楽しいものだった。
周囲の助言者たちのほとんどが、この雑誌に不可欠な経営の仕事を勧めた。
私はたびたびこのことについて祈ったが、具体的な導きを得ることはなかった。
とはいえ、次第に自分が向かっているところがわかってきた。
不眠症との戦いだ。
私は外面的には経営の重圧をうまく処理し、どこから見ても健康的だった。
けれども、夜眠れないことがしばしばあり、一、二時間しか眠れない夜もあるほどだった。
自分に何が起きているのか、より詳しく知るのに一年近くかかった。
執筆に取り組んでいるときには眠れていたが、経営の仕事をしているときには眠れなかった。
その状況を数か月ほど意識しないようにしたが、事態は滑稽なほどはっきりしてきた。
不眠症を滑稽なものと考えることができるならばだが。
あるとき一週間執筆にかかりきりになり、それから次の一週間を経営の仕事だけに費やした。
やはり思ったとおりだった。
私はものを書いていた週は乳児のようによく眠り、夜泣きする乳児のように、といったほうが真実に近いかもしれない、経営の仕事をしていたときは、ほとんど眠れなかった。
これは神の導きだろうか。
不思議に思った。
神が夢の中で語ると聞いたことがあったが、不眠症の中でも語られるのだろうか。
事態はいっこうに変わらず、やがて私は、不眠症というメッセージは自分に与えられた直接的な導きなのだと結論した。
いま当時を振り返ると、驚くほど直接的な導きと思われる。
God Bless You!!
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