2022年9月8日(木)

2022年9月8日(木)


『私たちは様々な議論と、神の知識に逆らって立つあらゆる高ぶりを打ち倒し……。』コリント人への手紙第二10章5節


罪からの解放とは、人間の性質からの解放ということではない。

人間の性質の中には、たとえば偏見のように、ひたすら無視することによって粉砕すべきものがある。
しかし、その一方、力ずくで、すなわち、聖霊から受ける神の力によって粉砕しなければならないものもある。

そうかと思えば、戦わずに、しっかり立って主の救いを見るだけでよいこともある。
しかし、「神の知識に逆らって」強固な障壁のごとく立ちはだかるあらゆる説や考えについては、人間的な努力や妥協によってではなく、神の力に拠り頼んで、計画的に粉砕しなければならない。

神が私たちの性質を変え、私たちが聖化の経験に入ると、必ず戦いが始まる。
罪に対する戦いではない。
私たちが罪と戦うことは決してできない。
私たちを贖われたときに、すでにイエス・キリストは罪を征服してくださったのである。

この場合の戦いとは、私たちが今までの生き方を霊的な生き方に改めようとするときに起こる戦いである。
それは決して簡単にすむものではないし、神もそのように意図してはおられない。
それを成し遂げるためには、一連の正しい選択をしていくほかはない。

神が私たちを聖めてくださるというのは、私たちの内面を聖なるものにしてくださるという意味ではない。
私たちを罪なき者としてくださったという意味である。
それを受けて私たちは正しい選択を積み重ねることにより、内面も聖められていかなければならないのである。

このような選択の前にいつも立ちはだかり、敵対するのは、私たちの中に深く根ざす、古い生き方とそれに属するものである。
それらこそ、「神の知識に逆らって立つ」強固な障壁なのである。

戦うことをあきらめて、神の国にとって無用の存在になる、という選択肢もないことはない。
しかし、覚悟を決めてそれらを破壊し、イエスによって栄光の世界に入れていただくこともできるのである。

God Bless You!!


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