2022年9月4日(日)

2022年9月4日(日)


『彼らはあなたのものでしたが、あなたはわたしに委ねてくださいました。』ヨハネの福音書17章6節


宣教者とは、自分がもはや自分自身のものではないという自覚を聖霊によってもたらされた人のことである。

「私はもはや私自身のものではない」と言えるとしたら、一つの霊的な高みに到達したことになる。
そのような生き方は、目まぐるしい日常の中で、最高の選択肢として自分を他者に意識的にあずけることにより、その真骨頂を現す。

その他者とはイエス・キリストである。

聖霊はイエスのご本性を私に解き明かしてくださる。
それは、私が最終的に展示室に並ぶ記念品になるためではなく、私が主と一つになるためである。

主は、これだけのことをしてあげたのだからという理由で、弟子たちを遣わされたことは一度もない。
主が復活されて初めて、弟子たちは聖霊によってイエスのご本性を理解し、「さあ、行きなさい」とイエスから命じられたのであった。

「わたしのもとに来て、自分の父、母、妻、子、兄弟、姉妹、さらに自分のいのちまでも憎まないなら、わたしの弟子になることはできません」とイエスは言われた。

善良で正しい人間になることができない、と言われたのではなく、わたしのものになることはできない、と言われたのである。

ここに掲げられた人間関係のどれも、主との関係と競合する可能性がある。
母や妻、あるいは自分自身を選びたくなるかもしれない。

するとイエスは言われる。
「あなたはわたしの弟子になることはできない」と。

私が救われる見込みはないというのではなく、「主のもの」にはなれないという意味である。

主が弟子をご自身の「所有物」とされると、弟子の責任を負ってくださる。
「あなたがたは……わたしの証人となります」とあるとおりである。

弟子の中に生まれるのは、イエスのために何か行動する、ということではなく、イエスに喜んでいただける存在になりたい、という願いである、「私は主のものであり、主は私を通してそのみこころを成就しておられる」と心から言えることこそ、宣教者を支える秘訣である。

あなたのすべてを主のものとせよ。

God Bless You!!


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